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二十二 罠に入る(2)

(カテゴリ:垓下の章

漢王は、韓信の前で、膝を着いて願った。

「どうか、お願いします、国士無双よ。天下平定の、ために―!」
韓信は、あまりの困惑のために、返す言葉を失ってしまった。
だが漢王は、ついに韓信の前で、頭を折り曲げ、額を地に着けた。
彼は、一切の恥も誇りも捨て去って、とうとう平伏して哀願した。
どうしてこのような場面を、想像できたであろうか。
韓信は、ようやく漢王に向けて、声を掛けた。
「立たれよ、、、漢王。あなたは、それでも天下人か!」
呼び掛ける彼の声には、怒りが混じっていた。
だが、漢王は、立たなかった。
彼は、土下座したままで、言った。
「天下人!、、、違います。私は、ただの沛の遊び人にすぎません。武勇なく、智恵なく、人徳のかけらもなく、ただ運と詐術だけでここまで来ました。智勇徳の全てに優れた英雄とは、まことにあなた様のことです。私ごときが、どうしてあなた様に、敵うでしょうか、、、!」
漢王は、みじめったらしい声を出して、体を震わせた。
漢王が、漢中に押し込められていた時代から、以来これまで覇者として駆け昇ることができた、その功績の数々。そのほとんど全ては、韓信が与えたものであった。漢王は、韓信がいなければ、項王を倒すことはできない。それどころか、もし韓信がいなければ、漢王は覇者として名を挙げることすら、できなかったであろう。
いま漢王は、自分を天に押し上げてくれた張本人に対して、最後の戦のために見苦しいまでに、媚びへつらった。
「天下は、泣いています。天下平定のために、力をお貸しください、、、大王!」
漢王は、泣いて韓信に、すがり着いた。
戦の才は、あなたのものだ。
この漢王は、あなたに比べて何の才もない。
漢王は、それを韓信の前で認めて、ついに大王とまで呼んだ。これが、最後の戦であった。最後の勝者となるために、漢王は、彼を勝たせるべき男の前で、真っ先に頭を下げて見せた。
韓信は、叫んだ。
「大王などという言葉は、おやめなさいませ!、、、斉と漢とは、対等です。」
漢王は、かぶりを振った。
「いえいえ、大王は、国士無双です。どうか大王と、呼ばせてください、、、大王!」
漢王は、ひざまずいて泣き続けた。
これから天下の覇者となるべき男とは、とても思えなかった。
韓信は、唇を震わせて、立っていた。
「――!」
あの漢王が、ここまで自分に媚びへつらうとは。
あの傲慢な漢王が、自分に這いつくばって、頭を下げるとは。
だが漢王にとって、まず項王を倒すことが、先決であった。
漢王はそのためならば、何でもした。韓信に頭を下げて、彼に戦の全てを任せるぐらいは、恥とも苦痛とも思わなかった。
そして、その後に何が待っているかを、当然漢王は、韓信に言わなかった。
韓信は、立ち尽くした。
彼は、天下を平定するために、ここに来たのだ。
韓信は、漢王の申し出を受けるより他は、なかった。それが、彼の進む道なのだ。
韓信は、言った。
「― ならば、諸侯の兵までも、私の指揮下に入れることに、異存はありませんね。」
漢王は、うなずいた。
「、、、それで、項王が倒せるならば、大王の望むがままに!」
韓信は、言った。
「諸侯の兵を併せて、総数おおむね三十万。これを用いて、速やかに項王を倒しましょう。これより、その策を申し上げます、、、」
言った後で韓信は、わずかに目を伏せた。
漢王は、ようやく立ち上がって、大いに韓信の言葉を喜んだ。
それから韓信は、胸中の策を、漢王に語り始めた。
二人が、項王を倒す策について、語り続ける間。
夏候嬰と陳平は、主君に従って、後方でずっと控えていた。
夏候嬰は、髭をひねり上げながら、所在なさそうに立ち尽くしていた。
彼は、韓信に憐れみを覚えた。
(前に、言った通りだ。結局、彼は漢王に、してやられるばかりだ―)
しかし、彼はその同情を、表に出すことができない。
とうとう斉王に昇った韓信は、漢の敵ともなりうる存在に、成長してしまった。漢は、これを策略もて、扱わなければならない。漢臣である夏候嬰に、漢王の策略を批判する資格はない。
陳平は、無言であった。
彼は、無表情のうちに、両目の奥を、ぎらつかせていた。
彼は、今日の一部始終を見て、すでに思いは戦後のことに、集中していた。
(韓信の翼を、へし折ってくれる、、、!)
陳平の目は、怒りに燃えて、刺すように韓信を睨みつけていた。
(王位を奪うだけでは、足りない。必ず、殺さなければならない。しかも、漢の恩に背いた謀反人の罪を着せて、栄光の全てを奪い取って、殺さなければならない―)
陳平は、戦後に韓信を陥れるべき筋書きを、このとき次々と、頭に描いていた。

韓信の策とは、このようなものであった。
まず項王から、後背の土地を全て、奪ってしまう。
もはや、項王の支配は、崩れ去ろうとしている。楚の各地に兵を進めて城市を奪い、楚軍から糧道を、断ってしまう。
追い詰められた楚軍は、もはや野をさまようより、他はない。
韓信は、言った。
「これから項王は、楚軍と共に次々と行き場を失って行くことになります。項王は、彼の都の彭城にも入ることができず、ついに進退窮まった項王がたどり着く場所は、彭城の南のあたりとなることでしょう。そこで、最後の野戦を、行います。」
漢王は、驚く声を挙げた。
「― 野戦!」
漢王は、野戦で項王に勝った、ためしがない。
しかし、韓信は、言った。
「もとより、野戦で彼を殺すことは、できないでしょう。しかし、彼の軍を倒すことは、できます。項王は、もうただ一人となってしまうのです。英雄に、末路を与えてやりましょう。」
韓信の策を、漢王はただただうなずいて、聞いていた。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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