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二十八 いざ、示さん(2)

(カテゴリ:垓下の章

冷たい雨が、降り注いでいた。

項王と彼の一行は、甲(よろい)も馬も泥だらけになって、包囲を逃れ、走っていた。
農夫に教えられた道は、偽りであった。
項王たちが進んだ道は、次第に低湿と化して、ついには全くの澤地に入り込んでしまった。
この道の先には何もない、と判断したときには、すでに大澤の奥深くに分け入った後であった。
項王は、急いで道を引き返した。
しかし、彼らの来た道には、敵の騎兵が続々と到着して、立ち塞がった。
水に覆われた大澤では、もし脇に逃げたとしても、馬が足を取られて、やがて動けない。
項王は、正面から突破するより、他になかった。
彼は、配下を率いて、敵に向けて斬り込んだ。
それから、どのぐらいの時間、戦ったのだろうか。
項王は、騅を駆けさせていた。
ひたすらに走り、大澤を逃れた。
激しく降る雨が、逃げる者たちの体を、厳しく叩いた。
だが、彼らは休んでいるわけには、いかなかった。
項王は、敵のいない所を選んで、駆けた。
駆けた。
ようやく進む方角を掴んだときには、彼に付き従う者の数は、もうずいぶん少なくなっていた。

項王と彼の一行は、陰陵から東に抜けて、東城(とうじょう)に至った。
東城からあと少し進めば、烏江に至る。
だがここまで来たとき、追う敵軍の数は、数千に膨れ上がっていた。
敵軍は、数をもって項王を圧倒しようとした。
項王を殺すには、数しかない。
項王と、従う騎兵たちは、東城の郊外に逃れた。
彼らは、郊外にある小さな山に、入り込んだ。
敵軍が、続々と押し寄せた。
彼らは、項王のいる山を取り巻いて、強烈に包囲した。
彼らは、山上で孤立してしまった。
このままでは、ここから先に、進むことができない。
項荘は、眼下にひしめく敵軍の人馬と旗の群れを眺めて、うなった。
「可悪(おのれ)、、、ついに、ここまでか!」
彼は、悔しさに、歯ぎしりした。
他の者たちも、項荘と思いを同じくして、憤った。
これほど戦ったのに、誰も疲れていなかった。士気はいまだに衰えるどころか、ますます盛んであった。
項王は、愛馬の騅を労わりながら、けろりとした表情であった。
彼は、憤る項荘らを見て、破顔一笑した。
「荘よ― むしろ、我らの武勇を、示す時が来たと思え。」
彼はそう言って、騅のしなやかな首を、撫ぜ続けた。
項王もまた、いまだ何ほども疲れてなどいない。
むしろ、これから本気の戦を漢軍に見せてやろうとまで、気概を膨らませる彼の有り様であった。
項王は、項荘に聞いた。
「我が、従騎たち。いま、残った数は?」
項荘は、答えた。
「― 二十八騎。」
項王は、数を聞いて、言った。
「ちょうど四で、割り切れる。四方から駆け下り、敵を四散させれば、勝利は我らのものだ。」
項王は、莞爾(にこり)とした。
何とも、不敵な笑顔であった。
彼の最後の従騎たちは、項王の笑顔にしびれて、一斉に表情を明るくした。
項荘が、声を高めて、項王に言った。
「二十八騎。すなわち、七騎で四隊をなし、敵を突破する。漢軍に我らの恐ろしさを示すには、十分な数!」
他の者たちもまた、彼の言葉にうなずいた。
「よし― 始めるか。」
項王は、騅の首を一叩きして、言った。
作戦は、以下のように、決められた。
残った騎兵をもって山から四方に向けて駆け降り、囲みを破る。
「諸君が集結する地点は― あそこだ!」
項王は、東の方角に見える小さな丘を、指差した。
「包囲を突破した後、あの丘の上、右、左の三地点に、再び集まれ。敵軍は取って返して、押し寄せてくるだろう。それを三点をもって叩き、見事撃退せよ!」
項王は、命じた。
彼の者どもは、決死の作戦を聞いて、奮い立った。
項王は、各人を自分の前に、集めた。
「本日、私はこうして、数千の兵に囲まれる窮地に陥った―」
彼らを前にして、項王は語った。
「だが!、、、私はこの窮地ですら、敵に勝って見せるだろう。私は、これまで八年間戦い続けて、敗北を知らなかった。私は戦において、決して負けはしない。」
それは、彼の自負であった。
彼は、負けを認めることなど、死の瞬間まで、ありえない。彼は、項王であった。項王は、人の後ろに立つことなど、ない。
項王は、天を仰いだ。
「もし、私を亡ぼすものがあるとすれば、、、それは、天なのかもしれない。」
彼は、大空を眺めて、言った。
戦って負けるとすれば、天に届かなかったまでだ。
最後まで、戦う。悔いの、残らないまでに。
項王は、残った者たちに向けて、宣言した。
「私は、最後まで戦う。今日もまた諸君と共に快戦して、敵軍に勝ち、敵将を斬り、敵旗を折り砕いて見せる。私は、天と最後まで、戦って見せる。天が私を亡ぼすのならば、亡ぼしてみるがよい!」
彼はそう言って、再び天空を仰ぎ、高らかに剣を突き上げた。
それは、天に挑戦しようという、しるしであった。
二十八人の従騎たちもまた、項王に賛じた。
「おおおおおおおお!」
「おお、おおおおお!」
皆が拳を天に突き上げ、怒号した。
不敵な奴らが、戦おうとしていた。
山上で、騎兵が円陣を組み、四方を向いた。
「― 勝つぞ!」
項王が、叫んだ。
「― おおよ!」
者どもが、応じた。
項王は、大音声を上げて、騅を駆け下らせた。
それと同時に、眼下の大軍に向けて、騎兵たちが一斉に飛び出して行った。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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