冷たい雨が、降り注いでいた。
項王と彼の一行は、甲(よろい)も馬も泥だらけになって、包囲を逃れ、走っていた。
農夫に教えられた道は、偽りであった。
項王たちが進んだ道は、次第に低湿と化して、ついには全くの澤地に入り込んでしまった。
この道の先には何もない、と判断したときには、すでに大澤の奥深くに分け入った後であった。
項王は、急いで道を引き返した。
しかし、彼らの来た道には、敵の騎兵が続々と到着して、立ち塞がった。
水に覆われた大澤では、もし脇に逃げたとしても、馬が足を取られて、やがて動けない。
項王は、正面から突破するより、他になかった。
彼は、配下を率いて、敵に向けて斬り込んだ。
それから、どのぐらいの時間、戦ったのだろうか。
項王は、騅を駆けさせていた。
ひたすらに走り、大澤を逃れた。
激しく降る雨が、逃げる者たちの体を、厳しく叩いた。
だが、彼らは休んでいるわけには、いかなかった。
項王は、敵のいない所を選んで、駆けた。
駆けた。
ようやく進む方角を掴んだときには、彼に付き従う者の数は、もうずいぶん少なくなっていた。
項王と彼の一行は、陰陵から東に抜けて、東城(とうじょう)に至った。
東城からあと少し進めば、烏江に至る。
だがここまで来たとき、追う敵軍の数は、数千に膨れ上がっていた。
敵軍は、数をもって項王を圧倒しようとした。
項王を殺すには、数しかない。
項王と、従う騎兵たちは、東城の郊外に逃れた。
彼らは、郊外にある小さな山に、入り込んだ。
敵軍が、続々と押し寄せた。
彼らは、項王のいる山を取り巻いて、強烈に包囲した。
彼らは、山上で孤立してしまった。
このままでは、ここから先に、進むことができない。
項荘は、眼下にひしめく敵軍の人馬と旗の群れを眺めて、うなった。
「可悪(おのれ)、、、ついに、ここまでか!」
彼は、悔しさに、歯ぎしりした。
他の者たちも、項荘と思いを同じくして、憤った。
これほど戦ったのに、誰も疲れていなかった。士気はいまだに衰えるどころか、ますます盛んであった。
項王は、愛馬の騅を労わりながら、けろりとした表情であった。
彼は、憤る項荘らを見て、破顔一笑した。
「荘よ― むしろ、我らの武勇を、示す時が来たと思え。」
彼はそう言って、騅のしなやかな首を、撫ぜ続けた。
項王もまた、いまだ何ほども疲れてなどいない。
むしろ、これから本気の戦を漢軍に見せてやろうとまで、気概を膨らませる彼の有り様であった。
項王は、項荘に聞いた。
「我が、従騎たち。いま、残った数は?」
項荘は、答えた。
「― 二十八騎。」
項王は、数を聞いて、言った。
「ちょうど四で、割り切れる。四方から駆け下り、敵を四散させれば、勝利は我らのものだ。」
項王は、莞爾(にこり)とした。
何とも、不敵な笑顔であった。
彼の最後の従騎たちは、項王の笑顔にしびれて、一斉に表情を明るくした。
項荘が、声を高めて、項王に言った。
「二十八騎。すなわち、七騎で四隊をなし、敵を突破する。漢軍に我らの恐ろしさを示すには、十分な数!」
他の者たちもまた、彼の言葉にうなずいた。
「よし― 始めるか。」
項王は、騅の首を一叩きして、言った。
作戦は、以下のように、決められた。
残った騎兵をもって山から四方に向けて駆け降り、囲みを破る。
「諸君が集結する地点は― あそこだ!」
項王は、東の方角に見える小さな丘を、指差した。
「包囲を突破した後、あの丘の上、右、左の三地点に、再び集まれ。敵軍は取って返して、押し寄せてくるだろう。それを三点をもって叩き、見事撃退せよ!」
項王は、命じた。
彼の者どもは、決死の作戦を聞いて、奮い立った。
項王は、各人を自分の前に、集めた。
「本日、私はこうして、数千の兵に囲まれる窮地に陥った―」
彼らを前にして、項王は語った。
「だが!、、、私はこの窮地ですら、敵に勝って見せるだろう。私は、これまで八年間戦い続けて、敗北を知らなかった。私は戦において、決して負けはしない。」
それは、彼の自負であった。
彼は、負けを認めることなど、死の瞬間まで、ありえない。彼は、項王であった。項王は、人の後ろに立つことなど、ない。
項王は、天を仰いだ。
「もし、私を亡ぼすものがあるとすれば、、、それは、天なのかもしれない。」
彼は、大空を眺めて、言った。
戦って負けるとすれば、天に届かなかったまでだ。
最後まで、戦う。悔いの、残らないまでに。
項王は、残った者たちに向けて、宣言した。
「私は、最後まで戦う。今日もまた諸君と共に快戦して、敵軍に勝ち、敵将を斬り、敵旗を折り砕いて見せる。私は、天と最後まで、戦って見せる。天が私を亡ぼすのならば、亡ぼしてみるがよい!」
彼はそう言って、再び天空を仰ぎ、高らかに剣を突き上げた。
それは、天に挑戦しようという、しるしであった。
二十八人の従騎たちもまた、項王に賛じた。
「おおおおおおおお!」
「おお、おおおおお!」
皆が拳を天に突き上げ、怒号した。
不敵な奴らが、戦おうとしていた。
山上で、騎兵が円陣を組み、四方を向いた。
「― 勝つぞ!」
項王が、叫んだ。
「― おおよ!」
者どもが、応じた。
項王は、大音声を上げて、騅を駆け下らせた。
それと同時に、眼下の大軍に向けて、騎兵たちが一斉に飛び出して行った。
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