一 盗賊王が盗む(1)
広大な河水(黄河)の上を、取り立てて目立った特徴もない一艘の渡船が、進んでいた。
広大な河水(黄河)の上を、取り立てて目立った特徴もない一艘の渡船が、進んでいた。
趙軍は、修武の城内に陣営を置いていた。
すでに、朝夕は肌寒い季節となっていた。
朝はようやくほのかに暁の明るさが空の端を覆い始めた頃で、鶏鳴を聞くにも、城門が開くにも、まだ早い。
韓信は、驚きのあまりに床から飛び出そうとして立ち上がれず、腰を抜かした恰好となって、見下ろす男に対した。
― 漢王には、気を付けるのよ。
陳平は、成皋にまで進んだ楚軍の西進を阻むために、漢兵を並べて防禦に当っていた。
彼女の目には、恨みの色があった。
漢王は、修武の支城である小修武の南に陣を置き、趙から奪った兵を用いて、項王との再戦に臨んだ。
漢王は河水(黄河)を渡ろうとしたが、郎中の鄭忠という者の進言に従って、しばらく大河を壕として正面から当ることを避けた。
漢王は、笑い転げながら、言った。
このとき、年代記で見れば、漢の四年になろうとしていた。前にも書いたように、漢の暦は秦暦をそのまま受け継いだもので、冬の初めの農暦十月が、年始となる。
二人は、話題を変えて、語り続けた。
彼は、大いなる幻影を、瞼の裏に描いた。
一時の華やかな時間は過ぎて、楚軍と項王は現実に立ち向かわなければならなかった。
「韓信、、、!」
項王にとって、決して見知らぬ敵の名前では、なかった。
調略、合従は、余人には見えないところで、行なわれる。
漢の軍師陳平は、このとき小修武の陣営にあって、毎日が忙しかった。
陳平の宿舎に、来客が告げられた。
陳平は、張良に言った。
小修武の陣営は、再びの進撃に向けて、動き出そうとしていた。
戦陣においても、生きる欲を忘れない。
項王は、東の梁を討つために動いた。
梁に討ち入る前に、項王の前で軍議が開かれた。
こうして、各人の思惑は、もつれ合いながら、見えないところで動いて行った。
それらはやがて浮上し、大きな事件を生むことであろう。
その主舞台は、斉。
その主役と、いえば―
韓信は、平原津で動かなかった。
韓信の、宿営の中。
姿は見えないが、声には聞き覚えがあった。
声は、韓信に言った。
蒯通の言葉は、続いた。
蒯通は、囁(ささや)いた。
それから日を措かず、歴(れき)に駐屯する斉軍の田間将軍から、平原津の漢軍に対して返答が送られた。
知らなかったのは、自分のこと。
韓信は、周りの者どもに、講釈などをした。
陣営の外は、強い風が吹いていた。
冷たい外気が吹き込むと共に、韓信は燻煙の臭いを感じた。
「何とも、暗い―」
入って来た者の声が、言った。
後ろに、小楽がいた。
鄧陵子は、小楽に支えられながら、残る気力で口だけを動かそうとした。
遅い夜明けを待つこともなく、暗い河の流れに鄧陵子の体が、投げ込まれた。
河水(黄河)を渡る漢軍は、軍に先走ってあらかじめ、対岸に使者を送り付けた。
侵攻が始まったにも関わらず、斉都の臨淄(りんし)は、不思議なまでに静かであった。
斉に在住している間、酈生は、気付かずにおられなかった。
― 韓信、平原津を越えて、斉に進む!
この報は、全ての陣営に、霹靂(へきれき)のごとく落ちた。
漢王は、出撃を間近に控えていた。
楚軍もまた、動いていた。
楚軍は、兵数二十万と号し、斉王の陣取る高密(こうみつ)に向けて進んだ。
籠城を拒否した龍且は、楚軍の諸将を集めて、告げた。
楚軍が来るべき戦に向けて着々と準備していた頃、韓信の斉攻略は、それ以上の速度で進められていた。
神算、鬼謀の将ならば、戦を始めるずっと前に、あらかじめ宮城にて計算することによって、すでに勝利を掴んでいる。きっと、そのはずだ。そうでなければ、ならない。
十一月、斉の平原は、身を引き締めるような寒さであった。
同じ頃、項軍もまた、戦場を求めて進んでいた。
報告は、漢軍がすでに予想以上に東進し終えたことを、伝えていた。
斉の平原に、荒涼とした風が、吹いて過ぎて行く。
楚軍は、いよいよ戦場に向けて、最後の行軍をした。
龍且は、諸将に聞かせるように、語った。
戦国時代以降の戦闘には、すでに儀式が欠けている。
敵軍の注目を一手に集めた、大将韓信。
いま、川のほとりは楚漢の決戦場となって、兵馬が猛烈に駆け抜けている最中であった。
小楽は、体が震えてしまった。
午後。
戦の終わった後の川は、再びもとの静かな流れに、落ち着いていた。
川の上流の方角から、百人ほどの集団が、行軍して来た。
第一章 開巻の章
第二章 伏龍の章
第三章 皇帝の章
第四章 動乱の章
終章~太平の章
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