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十五 国士、生きるべきか(2)

(カテゴリ:国士無双の章

「何とも、暗い―」
入って来た者の声が、言った。

「小楽、火を灯しておくれ。」
声は、隣に言った。
入って来た二つの影の一方が、手を動かした。
黄色い火が灯り、陣幕の中がたちまち明るくなった。
強風でも決して揺らがず、消える心配もない、特殊な仕掛けをした手燭(しゅしょく)であった。墨家は様々な技術を持っていて、これはそのちょっとした一つに過ぎない。
明りに映されて、入って来た面々が知れた。
「小楽、、、鄧陵子、、、!」
韓信は、声を上げた。
小楽は、韓信に一礼して、手燭を握ったまま奥に控えた。
鄧陵子は、韓信の前に進み、それから座して、拝礼した。
「よくぞご無事で、ございました。今夜のことは、全て斉国のなしたことです。あなたを殺し損じたことは、すぐにも斉の知るところとなります。時を、措かれるな。夜の明けると共に、平原津を渡りたまえ。今や勝敗の境は、すぐそこまで迫っております。」
韓信は、再び現れた彼の姿を見て、うなった。
「鄧陵子、、、あなたは、どこに行っていたのか。」
鄧陵子は、言った。
「私は、軍中に留まることは、できませんでした。そのため、陰ながらあなたをお守りしようと、心を配っておりました。今、あなたに最後の進言をしようと、参り越しました。たまたま小楽が楚から戻って来たので、彼を誘(いざな)って参りました―」
後ろの小楽が、韓信にうなずいた。
灌嬰は横に立って、鄧陵子を見下ろしていた。
灌嬰は、言った。
「鄧陵子、、、お前を、斬らなければならない。」
鄧陵子は、横の灌嬰に顔を向けず、言った。
「その必要は、ない。」
灌嬰は、言った。
「許さぬ。お前は、相国をそそのかし漢に叛かせようとした。逆意が見えた以上、断じて許すわけにはいかない、、、斬る。」
彼は、手に握る刀を、かちゃりと鳴らした。
韓信は、顔色を変えた。
「やめろ!、、、大将の、命令だ!」
灌嬰は、韓信の言葉に、首を横に振った。
「大将の側にいる逆臣は、除く。これは、君命です。」
韓信は、鄧陵子に言った。
「去れ!、、、いますぐ!」
しかし、鄧陵子は座ったままであった。
彼は、もう一度灌嬰を向かずに、言った。
「斬る必要など、ない。」
灌嬰は、鋭い声を投げ掛けた。
「笑止!」
彼は、刀を構えた。
鄧陵子は、言った。
「― 私は、もう死んでいるからだ。」
「!」
居合わせた一同が、驚いた。
鄧陵子は、言った。
「すでに、刃が私の急所を、貫いている。間もなく、私は死ぬ。」
そのとき、灌嬰はようやく気が付いた。
「先刻、相国の宿営に異変ありと告げて来たのは、お前か、、、そうだ、お前だ。どうして、誰も気付かなかったのだろうか?」
鄧陵子は、言った。
「気付かれるようでは、間諜などできない。相国を襲った、者どものように。」
彼の口調は、いまだに落ち着いていた。さきほどの言葉は、まるで戯言であるかのように思われた。
「奴らの動きに気付いた時には、私一人で追い散らすには数が多すぎた。それで、あなた方を呼び寄せたのだ。私は相国を守りおおせたことを見計らった後、逃げた者どもを追った。奴らが斉に戻れなければ、斉は事の結果を知るまでに、遅れが出るだろう。その遅れが、相国にとって貴重な時間となる。それで、私は彼らを追い、斉に帰さないつもりであった。」
語る彼の表情が、手燭の明りに灯されていた。
いま見ると、確かに血の気がすっかり抜けていた。
鄧陵子は、言った。
「相国、、、私が墨家の徒であったことが、わざわいしてしまいましたよ。」
そう言って、彼は微笑んだ。どうして、彼が笑えるのだろうか。
「墨家は、不殺兼愛。人の命を、奪うことはできない。それで、私は人を殺さずとも一日の間だけ失神させる技を、会得しております。私はそれを用いて、逃げた者どもを一人一人と、落としていきました。昔の私ならば、万事うまくいっていたであろう。だが、私も歳を取ったものだ、、、」
彼はそう言って、上衣の片方を、脱ぎ落とした。
一同は、びくりとした。
上衣を着ていては気付かなかったが、脇腹に鮮やかな刺し傷があった。
狭く深く貫かれていたので、血の流れが気付かなかった。
もう彼は、立ち上がることもできなかった。
急所を貫かれて、本当ならばすでに死んでいる。彼の言葉は、正しかった。彼は、残された気力だけで、ここに座っていた。
「最後の一人に、やられてしまいました。不覚で、ありました。落としたと思ったら、意識を取り戻して一撃を返された。さすがに、急所を外していませんでしたよ。しかし、奴らが斉に戻ることを、阻むことができました。」
鄧陵子は、それでも笑い顔を、目の前の韓信に続けた。主君が立ちて進むための機会を、作ることができたゆえであった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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