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十六 より大なるもののために(1)

(カテゴリ:国士無双の章

後ろに、小楽がいた。

彼は、楚から韓信のもとに急ぎ戻って来たときに、鄧陵子と出くわした。
鄧陵子が死の傷を受けていることは、今初めて知った。彼もまた驚き悼んだが、今は韓信のために大事なことを、哀しむよりも先に告げなければならなかった。
小楽は、言った。
「相国。残念なことが、楚で起りました。」
韓信は、彼に聞いた。
「お前がこんなに早く戻って来たとは、何があったのか?」
小楽は、言った。
「― 項軍が、淮陰の城市を屠りました。」
韓信は、表情を固まらせた。
「項軍が!淮陰を?、、、なぜだ!」
韓信は、声の調子を高めて、小楽に聞いた。
小楽の姿は、彼が提げ持つ手蝋の陰に落ちていた。
風を防ぐ仕掛けとして灯す方向以外が囲われているために、手燭を持つ者は照らされることなく、韓信は彼の姿を暗がりの中にしか確かめることができなかった。
その小楽が、言った。
「かねてから、城市の父老たちは項王のあまりにひどい徴発に、憤っていました。いま楚は梁地方を彭越によって荒らされ、兵を食わせ続けるための糧食の負担は、ますます後背の地に押し寄せています。特にこれまで戦場となることを免れてきた淮水以北の城市には、前線から徴発に次ぐ徴発が命じられて、民は明日を生きることすら、困難となりました―」
小楽の声は、冷静であった。
すでに、彼は少年兵の頃の、彼ではない。
戦場の現実を知り、死ぬべき体験をくぐり抜けて生を拾った彼は、もう立派な士人であった。
彼は、鄧陵子が今死んでいこうとしている現実を前にして、韓信に告げなければならないことを、つぶさに告げた。今の彼は、嘆き哀しむわけにいかない。
小楽は、続けた。
「そこに、今漢王の命を受けて、淮南王黥布が楚の支配をくつがえすために、調略の工作を始めました。かれは、駐屯する項王配下の将軍に手を伸ばし、楚から離反することを働き掛けたのです。項王に恐怖する諸将の心を叛かせるには、おそらく長い時間が必要となりましょう。しかし― 民は、そんなに長く待つことが、できませんでした。」
韓信は、小楽の告げた言葉を聞いて、体を震わせていた。
彼は、すでに起ったことの大略を、察知した。
彼は、小楽に言った。
声は、消え入るようであった。
「救いの働き掛けを知って、父老たちは蜂起することを、決意した、、、」
彼は、がっくりと肩を落とした。
「― そこまで、追い詰められていたのだ。」
韓信は、両手で顔を塞いだ。
彼らの行動を、無謀だと断ずるような言葉を、恥じた。
今の韓信のように、大将として上から指揮する立場であれば、下の者を追い詰め、彼らの無知無謀な行動に付け込むことは、軍略であった。
しかし、下にいて、押さえ込まれるばかりの人々は、追い詰められれば動かずにはおられない。
力が弱くて、余裕を持てない者たちの、やむにやまれぬ行動である。たいていの場合、判断は性急に過ぎて、期待が大き過ぎる。淮陰の父老たちは、決して愚鈍な人たちではないはずであった。それでも、大所から見れば誤った行動を、とうとう起こしてしまった。どうして、責めることができようか?
淮陰を始め周辺の城市が蜂起すれば、燎原の火のごとくに項王への離反が広がるであろうと、彼らは期待した。だが、期待は空しかった。項王への恐怖が、支配する者どもの心で勝った。期待した周辺の城市の蜂起も、ついに不発に終わった。
小楽は、辛い言葉を続けるより他は、なかった。
「主君の項王が城市を屠る戦い方を、配下の将もまた倣いました。直ちに反乱を鎮めるために、淮陰は急襲されて、破壊と共に終わりました。私が淮陰に着いた時には、悲惨が終わった後のことでした、、、」
韓信は、両手で顔を塞ぎ、それから前にのめって、頭を地になすり着けた。
彼の中に、激しい感情が湧き上がった。
しかし、その感情には、どのような形容も、当てはめることができなかった。
彼の中は、矛盾していた。
人々のために苦しむには、彼はすでに上から人々を苦しめる立場に、立っていた。
郷里のために悲しむには、彼は郷里の土地を敵国として、これまで散々敵を討つ戦いを指揮して来た。
人は、言う。
― だから、民のままでいることは、馬鹿らしい。出世して上に立たなければ、踏み付けられるばかりだ。志ある者が上を目指すのは、そうしないと別の者たちから自分がひどい目に、会わされるからだ、、、
賢い者は、この事実に迷いはしない。
もし敵に郷里がやられたならば、十倍返しで敵に報復するまでだ。そうやって、世に秀でた自分の力を、見せ付けるまで。勝者だけが、栄光と命を保つことができる。何を迷うことが、あろうか?
だが韓信は、そのまま突っ伏したままであった。
ようやく、彼は絞り出すように、掌の間から声を出した。
「― 林家の人々は、どうなった、、、」
小楽は、言った。
「探しました。だが、残念ながら、行方を突き止めることができませんでした、、、申し訳、ございません。」
屠られた後の淮陰の姿を、韓信はありありと脳裏に描くことができた。
すでに、彼は屠られた城市を、これまで幾度となく見て来た。
死に絶えた城市には、狗すらも動く影がない。
やがて、腐臭が城市を埋め尽くして行く。
屠った将卒すらその臭気に耐えることができず、彼らは後の埋葬もせずに、逃げ出していくのだ。
わずかに殺戮を逃れて生き残った者たちが、兵卒が去った後で耐え切れない悲しみと臭気の中で、死んだ城市を片付けて行く。
韓信は、林媼(ばあ)さんや阿梅を始め、一人でもよいから生き残っていてほしいと、願うばかりであった。だがそれは、薄い薄い希望でしかなかった。
韓信は、顔を上げることができず、動くこともできなかった。
鄧陵子は、その彼の前に座っていた。
彼は、もうこのとき死の直前にまで、至っていた。
その彼は、韓信に言った。
「相国、、、あなたは、今、苦しんでいる。」
下を向いたままの韓信に向けて、鄧陵子は言葉を続けた。
「何とも、弱いお方だ。ここまで至って、まだ立ち上がられない。」
韓信は、動くことも、答えることもできなかった。
鄧陵子は、言った。
「しかし― ゆえに、あなたは偉大なのです。あなたの命が守られたことを、私はいま死ぬ間際にして、喜んでいます。これから、あなたはついに立ちて進むに、違いありません。そして、あなたが進んだとき、この世にいる出世人たちの誰一人として、あなたを越えることができないでしょう。」
鄧陵子がここまで語ったとき、彼の体が傾いだ。
「― 鄧陵子!」
後ろの小楽が、歩み寄って彼を支えた。
韓信もまた、顔を上げた。
鄧陵子の顔は蒼ざめ、語る力すら尽きようとしていた。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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