こうして烏江の亭長は、項王の望みを容れて、騅を譲り受け、江東に戻ることとなった。
亭長は、深く頭を下げて、項王に約束した。
「大王の魂と思い、心を込めて養い続けます。」
項王は、微笑んで言った。
「ああ。よろしく頼む。」
亭長は、名残りを惜しむように、再度拝礼した。
船の上に、騅があった。
彼もまた、主人を見詰めていた。
項王は、愛馬に別れの一瞥を向けた。
やがて船は、艫(とも)の綱を解いて、岸を離れた。
それから、果てしない大江の彼方へ、船は泳ぎ去って行った。
項王は、船が川面に残した波のそよぎを、満足そうに眺めていた。
ついに彼は、大事なものの全てを、遠くに逃すことができた。
項王は、川に背を向けた。
彼は、言った。
「― どうして、逃げなかった?」
振り返ると、そこには彼の従騎たちが、整列していた。
従騎たちは、項王の薦めにも関わらず、誰一人として船に乗ろうとしなかった。
皆が、にやにやと笑っていた。
先頭に立つ項荘が、言った。
「あの亭長が、烏江のことを語り継ぐでしょう。しかし我らの仕事は、あなたに最後まで、付き従うこと―!」
それが、彼らの一致した、意見であった。
彼らとて、もう自分だ生き残って郷里に戻ることは、できなかった。
項王は、彼らの意志を、喜ばずに受けた。
項王は、彼らに言った。
「ならばもう、馬はなしだ。総員、徒歩で戦え。いずれ、我らは包囲される。脱出など、できない。」
彼は、従騎たちを馬から降ろし、彼らを引き連れて、四方を見下ろすことができる高地に向かった。
遠くを一望した時、敵の姿がもう迫りつつあるのが、見えた。
項王は、言った。
「この私を中心として、円陣を組め。敵を斬って、私に寄せ付けるな。」
従騎たちは、おう!と叫んで、承知した。
項王は、再び敵軍を見下ろした。
兵馬の数は、さらに増していた。
項王は、すでに刃がこぼれて斬れなくなった戟を、投げ捨てた。
脇から剣を抜いて、身構えた。
彼の従騎たちの剣や矛も、敵を斬りすぎて、すでに役に立たなくなっていた。
彼らは、匕首(あいくち)を抜いて、それで戦うことにした。
項王と従騎たちは、円陣を組んで敵を待ち構えた。
敵軍は、尽きぬほどの数をもて、続々と押し寄せて来た。
それから、数刻が経った。
激しい戦闘が始まり、血があふれ出し、いまだに続いていた。
項王たちは円陣を組んで戦ったが、長く戦ううちに、すでに崩れてしまった。今、各人は、それぞれの命が尽きるまで、ばらばらに戦っていた。
乱戦の中で、項荘も倒れた。
項王は、彼の死を嘆く暇すらなかった。
弩(いしゆみ)、矛、戟、剣―
あらゆる武器という武器が、たった一人を倒すために、投入されていた。
項王は、驚くべき俊敏な動きで、四方から飛び出す死の一撃を、かわし続けた。
だが、いかに彼としても、敵の数が多すぎた。
項王は走り、斬り、投げ飛ばしたが、彼の体はもう傷だらけであった。
いつか、生命は尽きるだろう。
項王は、また弩兵の一人を、掴み上げた。
彼はそれを敵の群れに投げ付け、弩兵もろともに十数人が、叩き殺された。
だが、百人、千人を殺しても、敵兵の数は少しも減ることがない。
項王は、敵を殺しながら、一体いつが死に時なのであろうかと、心で思うようになった。
「叔父上―!」
彼は、叔父の項梁を、思い出した。
「騅よ―!」
それから、彼の愛馬の姿が、脳裏に写った。
「虞美人、、、!」
ついに、彼の最愛の人の笑顔が、心にやって来た。
項王は、独語した。
「虞美人。私は、まだ死ぬことができない。誰も、私を殺すことができない。この世の人間は何と、つまらぬ奴ばかりなのか、、、!」
そう思った瞬間、彼は脇腹に、熱いものを感じた。
項王は、振り向いた。
そこには、歩卒が突いた矛の先が、突き刺さっていた。
「ええい!」
項王は怒って、矛を手に持ち、引き抜いて、突いた歩卒を一撃で打ち殺した。
だが、今度の一突きは、痛烈であった。
項王は、もう自分の生命が長くないことを、感じ取った。
彼は、よろめく足を踏んじばって、立った。
「おおお!」
彼は、大軍に向けて、駆けた。
兵卒たちは、項王の野獣のような勢いに恐れをなして、左右に分かれた。
項王は、走り続けた。
「誰か!、、、誰か、おらぬか!」
項王は、誰でもよいから現れてほしいと思って、絶叫した。
だが、彼の周囲には、敵しかいない。
このときすでに、彼の従騎たちは、全滅していた。
項王の呼ぶ声は、空しかった。
「誰か、、、!」
項王は、再び叫んだ。
そのとき。
「― 大王っ!」
馬の上から、返す声があった。
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