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二十九 烏江にて(2)

(カテゴリ:垓下の章

こうして烏江の亭長は、項王の望みを容れて、騅を譲り受け、江東に戻ることとなった。

亭長は、深く頭を下げて、項王に約束した。
「大王の魂と思い、心を込めて養い続けます。」
項王は、微笑んで言った。
「ああ。よろしく頼む。」
亭長は、名残りを惜しむように、再度拝礼した。
船の上に、騅があった。
彼もまた、主人を見詰めていた。
項王は、愛馬に別れの一瞥を向けた。
やがて船は、艫(とも)の綱を解いて、岸を離れた。
それから、果てしない大江の彼方へ、船は泳ぎ去って行った。
項王は、船が川面に残した波のそよぎを、満足そうに眺めていた。
ついに彼は、大事なものの全てを、遠くに逃すことができた。
項王は、川に背を向けた。
彼は、言った。
「― どうして、逃げなかった?」
振り返ると、そこには彼の従騎たちが、整列していた。
従騎たちは、項王の薦めにも関わらず、誰一人として船に乗ろうとしなかった。
皆が、にやにやと笑っていた。
先頭に立つ項荘が、言った。
「あの亭長が、烏江のことを語り継ぐでしょう。しかし我らの仕事は、あなたに最後まで、付き従うこと―!」
それが、彼らの一致した、意見であった。
彼らとて、もう自分だ生き残って郷里に戻ることは、できなかった。
項王は、彼らの意志を、喜ばずに受けた。
項王は、彼らに言った。
「ならばもう、馬はなしだ。総員、徒歩で戦え。いずれ、我らは包囲される。脱出など、できない。」
彼は、従騎たちを馬から降ろし、彼らを引き連れて、四方を見下ろすことができる高地に向かった。
遠くを一望した時、敵の姿がもう迫りつつあるのが、見えた。
項王は、言った。
「この私を中心として、円陣を組め。敵を斬って、私に寄せ付けるな。」
従騎たちは、おう!と叫んで、承知した。
項王は、再び敵軍を見下ろした。
兵馬の数は、さらに増していた。
項王は、すでに刃がこぼれて斬れなくなった戟を、投げ捨てた。
脇から剣を抜いて、身構えた。
彼の従騎たちの剣や矛も、敵を斬りすぎて、すでに役に立たなくなっていた。
彼らは、匕首(あいくち)を抜いて、それで戦うことにした。
項王と従騎たちは、円陣を組んで敵を待ち構えた。
敵軍は、尽きぬほどの数をもて、続々と押し寄せて来た。

それから、数刻が経った。
激しい戦闘が始まり、血があふれ出し、いまだに続いていた。
項王たちは円陣を組んで戦ったが、長く戦ううちに、すでに崩れてしまった。今、各人は、それぞれの命が尽きるまで、ばらばらに戦っていた。
乱戦の中で、項荘も倒れた。
項王は、彼の死を嘆く暇すらなかった。
弩(いしゆみ)、矛、戟、剣―
あらゆる武器という武器が、たった一人を倒すために、投入されていた。
項王は、驚くべき俊敏な動きで、四方から飛び出す死の一撃を、かわし続けた。
だが、いかに彼としても、敵の数が多すぎた。
項王は走り、斬り、投げ飛ばしたが、彼の体はもう傷だらけであった。
いつか、生命は尽きるだろう。
項王は、また弩兵の一人を、掴み上げた。
彼はそれを敵の群れに投げ付け、弩兵もろともに十数人が、叩き殺された。
だが、百人、千人を殺しても、敵兵の数は少しも減ることがない。
項王は、敵を殺しながら、一体いつが死に時なのであろうかと、心で思うようになった。
「叔父上―!」
彼は、叔父の項梁を、思い出した。
「騅よ―!」
それから、彼の愛馬の姿が、脳裏に写った。
「虞美人、、、!」
ついに、彼の最愛の人の笑顔が、心にやって来た。
項王は、独語した。
「虞美人。私は、まだ死ぬことができない。誰も、私を殺すことができない。この世の人間は何と、つまらぬ奴ばかりなのか、、、!」
そう思った瞬間、彼は脇腹に、熱いものを感じた。
項王は、振り向いた。
そこには、歩卒が突いた矛の先が、突き刺さっていた。
「ええい!」
項王は怒って、矛を手に持ち、引き抜いて、突いた歩卒を一撃で打ち殺した。
だが、今度の一突きは、痛烈であった。
項王は、もう自分の生命が長くないことを、感じ取った。
彼は、よろめく足を踏んじばって、立った。
「おおお!」
彼は、大軍に向けて、駆けた。
兵卒たちは、項王の野獣のような勢いに恐れをなして、左右に分かれた。
項王は、走り続けた。
「誰か!、、、誰か、おらぬか!」
項王は、誰でもよいから現れてほしいと思って、絶叫した。
だが、彼の周囲には、敵しかいない。
このときすでに、彼の従騎たちは、全滅していた。
項王の呼ぶ声は、空しかった。
「誰か、、、!」
項王は、再び叫んだ。
そのとき。
「― 大王っ!」
馬の上から、返す声があった。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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