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二十七 覇王の別れ(1)

(カテゴリ:垓下の章

宴は、終わった。

冬の夜が明けるには、まだ早い。
今、項王は、出撃の用意を終えた男たちと共に、いざ城を出ようとしていた。
彼の隣には、彼の愛馬の騅が、背を空けて待ち構えていた。
騅は、昨日の戦で傷付き、苦しんで城に戻った。
だが、今は主人の意気を感じ取ったか、主人のために最後の一駆けを駆けようと、再び生気を取り戻した。
項王の周囲には、城内に残った将兵と馬が、集まっていた。
彼が育て上げた江東の騎兵たちは、もう今の時点で、残りわずかとなっていた。
彼らは、いとこの項荘を始め、全員が項王と共に息絶えるまで戦う覚悟であった。
項王は、この最後の決戦に臨んで、他に城内に残った将兵たちから、馬に乗れる者どもを全てうち跨らせた。
これらもまた併せると、総勢で八百余騎の集団となった。
「よし。戦える。」
項王は満足して、大きくうなずいた。
項王は、他の兵卒たちに、命じた。
「馬に乗れぬ者は、もうよい。今日、夜が明けたら、漢に降伏せよ。この城の戦は、もう終わった。」
兵たちは、項王に着いて行けぬことを、悔やんだ。
しかし、項王は、彼らに言った。
「無様な玉砕など、私はいらない。敵を圧倒する戦を、私は見せてやりたいのだ。諸君は、これまで私によく付いて来てくれた― 感謝する。」
兵卒たちは、項王の言葉に、皆が泣いた。
それから項王は、いとこの項荘の方を向いて、言った。
「― 季父(おじ)に助命すれば、項氏の一族として生き残ることができるぞ。それでも、私に付いて来るか?」
漢は、全ての罪を項王一人に帰して、天下を平らげるつもりであった。そのために、項王の季父の項伯をはじめとした項氏や、さらに楚の遺臣たちについても、戦後に罪を問わないことを約束していた。
項荘は、一族の中で、最も項王と歳が近かった。江東での挙兵以来、ずっと項王を兄として、彼に付き従ってきた。
項荘は、項王の言葉を、鼻で笑った。
「どうして、それを聞く?」
項王は、ふっと笑った。
「私は、すでに一族からも、見離された。もはや私には、親族すらいない。」
項荘は、項王に言った。
「親族など、関係あるか。俺があなたを裏切って生きて、何になるだろう。俺たちは、若い。このまま老いて、たまるかよ。」
彼のいとこは、不敵に笑った。
後ろに控える、これから項王と共に進まんとする者どもも、大いに笑った。
「― 行くぞ!」
「― 唯(おおよ)!」
項王も、騎兵たちも、皆が馬に飛び乗った。
包囲する敵軍に向けて、これよりいざ突破戦であった。

垓下城の城門の一つが、勢いよく開いた。
包囲する兵卒たちは、震えて身構えた。
開けられた門から、騎馬の一集団が、現れ出た。
「誰も、我らを止められはしない― 進め!」
項王は、大音声で、叱咤した。
彼の声と共に、最後の項軍が、どっとあふれ出した。
その勢いに、包囲軍は、恐れてほとんど足が、凍り付きそうになった。
「― 弩!」
命ずる声が、響き渡った。
城門の正面には、多数の弩兵が、配置されていた。
兵卒たちは、上官から命じられて、指を反射的に動かした。
一斉に、騎兵たちに向けて、弩の嵐が射掛けられた。
たちまち、正面の数十騎が射抜かれて、脱落した。
「我が動きは、矢よりも速い!」
項王は叫んで、倒れた者たちの後ろから、割って飛び出した。
彼に続いて、騎兵たちが駆けた。
敵の第一撃をかわし、項王たちは敵兵に向けて、真っ直ぐに進んだ。
正面にあった包囲の兵は、ついにその勢いを、防ぐことができなかった。
項王とその騎兵は、第一陣を蹴散らし、脱落した者を振り返りもせず、駆け抜けていった。
守りを突破された灌嬰は、配下に向けて、必死に叫んだ。
「横を狙え!、、、横から、撃ち崩すのだ!」
包囲軍の兵数は、突破して来た項軍を、はるかに上回る。
追いすがって、次第に削り取っていけば、やがて尽きるはずであった。
灌嬰は、大きな輪を描いて包囲しようと、配下の総軍に、出撃を命じた。
だが、彼の命令が届くよりも、項王の動きの方が、より速かった。
次々に現れる敵軍に攻め込まれながら、それでも彼は、止まらなかった。
騅は走り、彼と共にある騎兵たちは、項王の左右を敵から守った。
ついに夜が明ける頃、項王は、諸侯軍の分厚い包囲陣を突き抜けていた。
彼と騎兵たちは、明け染める平原を、一散に駆けて行った。
「騎兵ども、追えっ!」
灌嬰は、項王に包囲を突破されたことを覚り、全ての騎兵に命じて、これを追いすがらせた。
項王を追わせた騎兵の数は、五千。
だがこれでも、もしかしたら、足りないかもしれない。
やはり、韓信の言ったとおり、項王は脅威であった。
「何という、男、、、!」
灌嬰は悔やんで、唇を噛んだ。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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