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二十六 垓下に歌う(2)

(カテゴリ:垓下の章
力ハ、山ヲ抜キ
気ハ、世ヲ蓋フ
時、利アラズ
騅、逝カズ
騅ノ逝カザル、奈何(いかん)スベキ?
虞ヤ!虞ヤ!若(なんじ)ヲ奈何セン?

項王は、剣を振るって舞いながら、ゆっくりと吟じた。
項王がこれまで戦い続けた間に、少しずつ作り上げた、項王の歌であった。
今、最後の一句までを完成させて、歌う。
仕上がった垓下の歌は、何という悲しい歌であろうか。
項王は、繰り返し歌い、舞った。

力抜山兮気蓋世
時不利兮騅不逝
騅不逝兮可奈何
虞兮虞兮若奈何

後世の、技巧だけが自己目的となってしまった漢詩に比べて、平易な言葉を恐れず、語の繰り返しを避けたりもしない。
実に分かりやすく、吟じて心に響く、歌であった。この歌は、自然な人間の魂が、魂のままに歌う、魂の歌であった。後世の士大夫高官どもがいくら教養を積んで、古典の該博な知識の上に詩をこしらえたとしても、項王のこの歌には遠く遠く及ばない。
虞美人が、鐘を打ちながら、項王に和した。
二人の声が、重なって、絡み合った。
一座の者たちが、泣き始めた。
項荘を初め、わずかに残された項王の鉄騎たちの生き残りたちも、泣いて、泣いて、項王を仰ぎ見ることが、できなかった。
項王すら、また涙を出しそうになった。
だが、そんな彼を、虞美人は叱った。
「― 楽しく!」
彼女は、言った。
「泣くなんて、あなたには似合わない。あなたは、明るく燃えていなければだめだ、、、あなたの命が尽きる、最後まで!」
虞美人は、彼にそう言って、涙に湿る男どもを、叱咤した。
彼女に言われて、項王は、涙の海から踏み止まった。
「そうだ。お前の、言うとおりだ。やはり、お前は私にとって、かけがえのない人だよ―!」
項王は、彼女に向けて、一笑した。
虞美人も、笑って返した。
もう、二人に涙は、要らない。
二人は、再び声を合わせて、歌い始めた。

力抜山、兮――
気蓋世。

時不利、兮――

騅不逝。

(あの騅も、今は傷付いてしまった。私とあいつは、どこまで走ることができるだろうか―)
彼は、この宴の後に、最後の突撃を漢軍に食らわせることを、思っていた。
彼は、この巨大な包囲を、突破してやるつもりであった。
(― 願わくは、中途で果てぬことを!)
彼は、歌を続けた。

騅不逝、兮――
可奈何。
虞兮――
虞兮――!

ふと彼は、和する声の音量が大きくなったのを、感じ取った。
見回せば、一座の者は、皆が歌っていた。
虞美人に叱られて、今は男たちも、声高らかに胸を張った。
項王も、虞美人も、喜んだ。
しかし―
よく、耳を澄ませば。
彼ら一座の者たちの背後からも、いつしか歌が立ち昇り始めていた。
この宴席の外に、誰がいる?
― 和し始めたのは、包囲する諸侯軍の兵たちであった。
彼らまでが、項王の垓下の歌に動かされて、歌い始めていた。
項王は、驚いた。
「何と!― 歌は、拡がるばかりだ!」
虞美人は、笑った。
「これが、あなたの力。あなたは、山はおろか、この世の全てを、動かしてしまうんだ。」
二人は、互いにうなずき合った。
そしてさらに、歌を続けた。
外から聞こえる合唱は、どんどん高まっていった。
周勃ら、包囲軍の楽隊までが、項王の歌に音曲を添え始めた。
垓下の城は、包囲する者と包囲される者が一体となって、歌を歌った。
奇跡のような、光景であった。
敵も味方も、覇王の作り上げた大いなる時代を送るために、この夜の一時を、共にした。
項王は、数十万の声に励まされながら、さらに舞った。

― なんじを、、、奈何せん?

彼は、歌いながら、虞美人を見た。
虞美人は、明るく笑っていた。
項王の心は、彼女の笑顔に、きつく締め付けられた。

          

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第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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