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三十 命の夕刻

(カテゴリ:垓下の章

項王が気が付くと、そこは森の中であった。

彼は、敵兵を掻き分けて走り、知らず戦場から離れて、森の奥にまで迷い込んでいた。
項王の前に、一人の騎将が、馬から降りて立っていた。
騎司馬の位にあるその騎将は、項王に対して、再び声を掛けた。
「大王!、、、こんな所で、こんな姿で、またあなたに会ってしまったとは。」
騎司馬は、体を震わせて、項王に言った。
項王は、彼の姿を見た。
二人を囲む森の中は、不思議なまでに静かであった。
項王は、言った。
「― 生きていたか。我が知己よ。」
そう言って、騎司馬に微笑んだ。
騎司馬は、震えながら、言った。
「心ならずも、漢軍の一員となってしまいました。戦に敗れ、つい最近まで、全てを忘れてしまっていたのです。どうか、許されよ、、、!」
そう言って、呂馬童は頭を垂れた。
項王は、血のしたたる脇腹を抱えながら、彼に歩み寄った。
彼は、呂馬童に肩が触れ合うほどに、近づいた。
項王の血の臭いを、呂馬童は嗅いだ。
項王は、呂馬童の肩に手を掛けて、言った。
「最後に、お前が生きているのを知った。こんな嬉しい、ことはない―!」
そう言って、彼は痛みも忘れて、満面で笑って見せた。
何の邪気も怒りも、彼の笑顔には、見られなかった。
項王の受けた傷は、もはや生き続けることができなかった。
項王の心は、少年時代に戻った。
昔に帰りたい、などとは思わない。
ただ、死んだと思っていた男が、生きて彼の前に現れた。ただ、そのことを喜んだ。
呂馬童は、目に涙をにじませた。
彼もまた、項王に肩を掛けた。
呂馬童は、項王に言った。
「もう、助かりません、、、完全に、包囲されています。」
項王は、言った。
「よい。私は、もう死ななければならない。だが、、、静かに死ぬのは、私の生き方ではないぞ。」
彼は、敵に囲まれながら、死にたかった。
それが、覇王の死に方ではないかと、彼は思った。
項王は、言った。
「呂馬童。軍勢を、呼べ。私の死に様を、できるだけ多くの者に、見せてやろう。」
彼は、息を切らしながら、呂馬童を促した。
呂馬童は、泣きながら、承知した。
彼は、項王に背を向けた。
それから、森の外に向けて、ありったけの声で叫んだ。
「― 項王、見つけたり!」
声は、森の木々に跳ね返り、間をくぐり抜けながら、広がっていった。
たちまちのうちに、包囲の軍勢が、殺到して来た。
森の中は、騒然となった。
彼らの前に、血まみれの項王がいた。
もう、立っているのが、やっとであった。
なのに、包囲する将も兵卒も、誰一人として襲い掛かる勇気を持つことが、できない。
項王の恐怖は、最後の瞬間まで、人を圧倒していた。
項王は、互いの顔を見合わせるばかりの敵兵たちを、ぐるりと見回した。
彼は、莞爾(にこり)とした。
包囲の兵たちに、言った。
「― 聞けい!」
項王は、笑い顔で、叫んだ。
「我が首は、漢にとって千金に値しよう。お前たちは、私の屍を拾って、出世するがよい。ひとつ、諸君に恵んでやろうではないか、、、!」
彼は、最後まで不敵であった。
天と戦って、敗れたのだ。
人との戦に、敗れたのではない。
項王は、ここに天に敗れて、砕け散ろうとしていた。
彼は、首に刀を当てた。
「呂馬童、、、見届けよ!」
項王は、後ろを向いて、旧友に言った。
だが、言われた呂馬童の目は涙であふれ、とても直視することができなかった。
項王は、首に当てた刀を引いた。
一瞬間、地上の時間が止まったようであった。
音も、なく。
覇王の体は、静寂の中に、立ったままであった。
それから、次の瞬間までは、永遠のように長かった。
次の瞬間が、来て―
将兵が、我れ先にと、項王の死体に襲い掛かった。

項籍、字は羽。
楚王国の貴族、項氏の子弟として産まれる。
叔父の武信君項梁の股肱として、秦末反乱にて楚軍の将となる。
宋義を斬って卿子冠軍の位を奪い、楚軍を率いて、秦軍を大破する。
秦の関中に入り、漢王劉邦を鴻門の会で屈服させ、秦王子嬰を殺し、秦都咸陽を焼く。
秦滅亡の後、西楚覇王を名乗って君臨し、楚帝を殺す。
漢王劉邦の逆襲を一度は彭城の戦で大破するも、漢王を殺すことができず戦線は膠着。その間に韓信が平定戦を成功させて、ついに窮する。
漢五年、垓下の戦に敗れた後、烏江まで逃れて、そこで自ら刎(くびはね)る。
自害したとき、彼はまだ三十歳にも至っていなかった。
青春のうちに全てをやり尽くした、男であった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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