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二十八 いざ、示さん(3)

(カテゴリ:垓下の章

追われ、討たれて、追い詰められた騎兵たちの、どこにこれほどの力が、残されていたのだろうか。

項王に加えて、わずか二十八騎であった。
その二十九人が山を降りて、数百倍の数で取り巻く敵軍に向かって、斬り込んで行った。
項王は、山上から見渡し、眼下の一つの旗に目を付けた。
「まずあれを、討ってやろう―」
旗の下には、敵将の一人が、いるはずだ。
項王は、目指す獲物に向けて、絶叫して騅を駆け下らせた。
草叢が風を受けて割れるように、項王が進む道の兵卒が、左右に弾け飛んだ。
彼に狙われた哀れな一将軍が、驚いて身構えたとき、もう遅かった。
項王は、戟を一旋回させて、敵将の首を素早く刈り取った。
敵の兵卒たちは、あまりの素早さに、感情を持つ暇すらなく、立ち尽くした。
項王は、体中に、飛び散る敵将の鮮血を浴びた。
彼は、真っ赤となった顔を四方に回して、取り巻く敵兵どもを睨み付けた。
次の、瞬間。
一斉に、恐怖の悲鳴が、沸き起こった。
「― 東へ!」
項王は、直ちに騅を駆り立て、東の方角に向けて、包囲の輪を突破しようとした。
郎中騎の楊喜が、配下を急き立てた。
「追えっ!、、、あれが、項王だ。何としても、討ち取れ!」
彼は、大声で怒鳴り散らした。
だが、彼の旗下の騎兵たちは、あまりの恐怖を見せ付けられたために、将の指令にも関わらず、震えていっかな動こうとしない。
楊喜は、激怒した。
「ええい、混帳(どあほう)!」
彼は、自ら馬を駆って、先導して項王を追った。
項王と彼の従騎たちは、目の前に後から後から現れる大軍を、めくるように突破していった。
「敵の数は、十騎にも足りぬ!」
楊喜は、これほどの大軍が、どうしてわずかの敵を討ち取れないのか、不思議でならなかった。
彼は、馬を駆けに駆けさせて、逃げる項王に追いすがった。
ついに、項王の背中まであとわずかの距離に、接近した。
「― もらった!」
楊喜は一笑して、脇に抱える矛で、背後から突き殺そうとした。
そのとき。
彼の前を駆ける男が、振り向いた。
項王は、目を瞋(いか)らせて、後ろの楊喜を大喝した。
楊喜は、声も出せなかった。
「―――!」
手が震えて、矛を落とした。
体さえ崩れて、彼はもう少しで落馬するところであった。
楊喜が必死となって姿勢を戻したとき、もう項王ははるか遠くに、逃げ去っていた。
「郎中騎、、、!」
彼の配下の騎兵たちが、将を心配して、駆け寄って来た。
「―――!」
しかし、楊喜は、配下から声を掛けられても、いまだ言葉を出すことが、できなかった。
彼は、心の底から、震え上がった。
かつてこれほどまでの恐怖を感じたことは、なかった。
包囲軍は、たった一握りの敵の出現のために、混乱を極めた。
しばらくしてようやく、項王の一団が包囲を突破したことを、知った。
包囲軍は、直ちに態勢を立て直した。
項王の一団は、包囲を突破して、東に走り抜けていった。
東に向かった数里の先には、小丘があった。
包囲軍は、方向を変えて、再び包囲を敷かんと、進んでいった。
「数ばかりが、多いものだ―」
項王は、小丘の頂上から、敵軍を見晴るかした。
項王は笑って、彼の従騎たちに言った。
「日が、暮れるまで。日暮れまでこの丘に踏み止まって戦えば、敵から逃げおおせる。勝利まで、もうあとわずかだ―!」
だが、時刻はあとわずかどころか、まだようやく陽が傾き始めたばかりであった。
それでも、騎兵どもは、項王の言葉に、笑ってうなずいた。
我らは、無敵。
項王は、倒れぬ。
今日午前の戦で、彼らの確信は、完全となった。
項王は、叫んだ。
「予定どおり、三点に分かれて、敵を迎え撃て。それ以上に、諸君に申すことはなし!」
彼の騎兵どももまた、大声して項王に応じた。
その間にも、包囲軍が再び殺到して来た。
再び、戦いが始まった。
包囲軍は、丘の上、右、左の三点に騎兵が集まっているのを確かめて、それら全てに向けて、押し寄せた。
項王が、またもうなりを上げて、騅を駆け下らせた。
また一人の都尉の首が、刎ね飛んだ。
包囲軍は、包囲の輪を狭めようとするが、動きが鈍い。
皆が、項王と彼の鉄騎に、恐怖していた。
攻めろと将に叱られても、攻め切れない。
飛びかかれと都尉に蹴られても、進む勢いを到底出せなかった。
戦場は、怒号と罵声と、いななく馬の声が、激しく飛び交っていた。
しかし、大軍は、いっこうに戦果を挙げていないようであった。
誰も、時が経ったことに、気付かなかった。
戦場に闇が降りて、人々はようやく一日が終わったことを、知った。
包囲軍は、ついにこれ以上、戦うことができなくなった。
戦の結果は、いまだ明らかでなかった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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