呂馬童は、聞いた。
小楽は、彭城での戦で楚軍から脱落して以来、あの韓信と行動を共にし続けて来たと言う。
その韓信は、斉で呂馬童ら楚軍を撃ち破った後、いまや斉王に昇った。彼は、ついに戦乱を終わらせることを決意して漢王に合流し、この垓下で項王との最後の戦を指揮している―
小楽は、呂馬童に聞いた。
「もう、戦は終わってしまいます。項王もまた、このようにもう、最期となりました、、、呂馬童、あなたはこれから、どうするのか?」
小楽は、案じた。
記憶を取り戻した呂馬童は、やはり項王に殉じるのか。
天下から戦乱を終えさせるために、項王だけは、必ず命を奪われなければならない。
漢王も、韓信も、項王の命だけは、許すことができなかった。
呂馬童は、うなだれた。
小楽は、言葉を返さない彼に、言った。
「斉王は、この戦の後に、きっとその地位が危くなります。ひそかに私は、これから彼の栄光はおろか、命すらも危くなってしまうのではないかと、案じているのです― 呂馬童!できれば、これから後は、斉王韓信のことを、助けていただけないでしょうか?」
呂馬童は、彼の問い掛けに、しばらく答えなかった。
それから、ようやく口を開いた。
彼は、今は小楽の願いに答えることなく、言った。
「もう、全ては戻らない。私は、これからせめて項王の最期を、この目で見届けたいと思う。」
そう言って、彼は城を見上げた。
「呂馬童、、、!」
小楽は、彼にさらに言葉を掛けようとした。
だが、呂馬童は、城を見上げたまま、身動きもしなくなった。
城門はいまだ閉じて、城内は暗いままであった。
城を囲む兵卒たちの声が、尽きることもなく、流れ続けた。
城内の一室に、二人の男女の影があった。
項王は、今日の戦に敗れた後、虞美人と共にあった。
虞美人が、ようやく真っ暗な闇の中に、一台の灯りを点けた。
燭台の火が、ぼんやりと室内を照らした。
衣服も着けぬ二人が、向き合っていた。
項王は、城の周囲から聞こえて来る歌を聞いて、つぶやいた。
「漢王。私が与えた歌で、返したか、、、」
そう言って、彼はくすりと、微笑んだ。
数十万人の、声。
周囲が全て、歌っていた。
漢王は、彼の周囲全てを、支配していた。
「音律が、悪いね。」
虞美人が、言った。
項王が、答えた。
「この国には、音楽の才を持つ者がいない。」
虞美人が、言った。
「でも、よい歌だね。たとえ下手が歌っても、よい歌は輝くものさ。」
項王が、答えた。
「この歌は、残る。それが、慰めだ。」
虞美人が、言った。
「あなたのことだって、後の世まで残るさ― たぶん、悪人としてだろうけどね。」
そう言って、照らされた彼女の顔が、笑った。
項王は、聞こえて来る歌に囲まれながら、言った。
「これから後には、漢王の天下が来るのか。」
項王は、思いを馳せた。
「漢王の、国か、、、」
それから、ふっと笑った。
「― つまらん。」
彼は、軽く首を横に振った。
「統一された国などに、私はいたくもない。私もまた、この国の子だ。この国の人間が、統一の下に凍り付いてしまおうと望む。ならば、そうするがよい。私は、もう見放すまでだ。」
項王は、精一杯に笑って見せた。
虞美人には、彼の笑顔が、淋しく見えた。
また、歌が一層大きくなった。
風が舞って、城内に声と共に、流れて来るのであろうか。
威ハ海内ニ加ワリテ――
故郷ニ、帰ル
「故郷に、帰る―」
項王は、歌の一句を繰り返した。
いったい彼の故郷は、どこにあるのか?
項王は、つぶやいた。
「残念だ。」
彼は、人に容れられなかった。
人は、彼を容れなかった。
項王は、もう一度、つぶやいた。
「残念だ。」
郷里もまた、彼に叛いてしまった。
彼にはもう、戻るべき場所がない。
楚歌が、彼の四方から、聞こえて来る。
数十万人が歌う、大風の歌。
それがは、彼をこの世から見送る、送別の合唱のようであった。
項王は、再びつぶやいた。
「残念だ、、、!」
彼の目から、涙があふれ出た。
項王は、泣いた。
今日もまた、泣いてしまった。
虞美人は、泣く彼に、言った。
「体の中から、涙を枯らしてしまいなさい。そして、涙が枯れたら、立つのよ、、、立って、項羽!」
虞美人は、彼を励ました。
もう、彼の覇王は、死ぬしかない。
そして彼が死ねば、彼女もまた、死ぬであろう。
死ぬことが、恐ろしいのではない。
ただ、まだ生きているうちから、挫けてはならない。
最後の最後まで、覇王は戦い続けなければならない。
彼女は、そう思った。
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