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二十五 四面楚歌(2)

(カテゴリ:垓下の章

更けて行く夜の空に、一つの楚歌が、響き渡った。

城の四周を覆い尽くした、数十万人の声。

大風起、兮――
雲飛揚、

声。

威加海内、兮――
歸故郷、

声。

安得猛士、兮――
守四方。

声という声が重なり合って、うねるように項王の籠る城を、取り巻いた。
包囲する兵卒たちの過半を占める斉人や秦人たちは、この歌が何を歌っているのか、よく分からなかった。分からぬままに、包囲軍の前方で歌う楚兵たちに調子を合わせて、唱和した。兵卒たちに対して事前に文字が示されなかったのは、各国の言葉で歌の文字に対する発音が、てんでばらばらだからであった。
本日の戦で灌嬰が率いた斉軍は、韓信の命に従って、敵城の最急所を担当して包囲していた。
城の四周の門は、固く閉ざされていた。
灌嬰の軍は、城門の前を、重なり合って封鎖していた。
彼らもまた、命じられるままに歌っていた。
変な楚歌だと思いながら、歌った。
その軍中に、騎兵の一隊があった。
一隊を率いるのは、騎司馬という役職の、中堅将校であった。
(、、、この歌は、どこかで聞いたことが、ある。)
彼だけは歌いながら、心に何かひっかかるものを、感じていた。
騎司馬は、他の兵卒たちとは違って、歌の内容を完全に理解することができた。
すなわち、彼の出身は、楚であった。
灌嬰は、斉王に昇った韓信からの信任を受けて将軍となって以来、自らの軍を大いに拡張した。やがて来るべき項王との戦に備えての、ことであった。
そのため、灌嬰は、腕に覚えのある勇士たちを、自軍にどしどし採用した。
この騎司馬もまた、騎馬の素晴らしい技を買われて、騎兵の一隊を統べる将校に任じられていた。
だが、彼は、いま斉軍の一員として仕えていながら、以前に自分が何をしていたのかを、思い出すことができなかった。
普段から楚語を話す彼は、楚人であることに間違いない。
だが、この戦乱の時代、生まれ育った郷里を離れて見知らぬ土地に逃げ込む者は、庶民ですら非常に多い。それで、騎都尉は、よく思い出せないものの、自分が斉にいるのもまた庶民たちの例のうちなのであろうと、これまで思い込んでいた。
彼も、同僚たちと共に、楚歌を歌っていた。
言葉に合わせて口を動かしながら、その動きが、しかし今初めて知ったものではないように、感じた。
(大風、起こりて―)
彼は、歌いながら、なぜ引っ掛かるのだろうかと、思った。
(雲、飛び揚がる、、、!)
突然騎司馬の脳中に、焼いた鉄が突き入れられたかのように、情景が写し出された。
(― 虞美人!)
虞美人が、彼と兵卒たちの前で、舞う風景であった。
この歌を歌いながら、楚兵の前で、舞っている。
それを、彼は楚兵と共に、見ている。
そして彼らの輪の中心に立って、一人の男が、歌い喜んでいる。
その、男とは―
(― 項王!あっ!)
騎司馬は、我に返った。
「項王、、、!」
生き延びて斉軍の中にあった呂馬童は、彼の記憶を取り戻した。
彼は、韓信に敗れて以来、全ての記憶を失っていた。
しかし呂馬童は、項王と虞美人が歌っていたあの歌によって、今ついに記憶を呼び覚まされた。
記憶を戻した彼の前にあるのは、垓下城であった。
彼の周囲からは、数十万人の兵の声が、立ち昇っている。
彼が眠っている間に、項王はついに兵を使い果たし、自国を失い、巨大な敵兵に包囲されて、いまこの垓下城で、全ての行き場を失っていた。
「項王―!」
呂馬童は、目覚めた。
しかし、もう、取り返しが付かなかった。
いま彼は、その項王を包囲する役回りに、立っていた。
何という―!
何という、運命なのか―!
呂馬童は、ずり落ちるように、乗っていた馬を降りた。
それからよろめいて、膝を崩しそうになった。
そのとき―
「― 呂馬童!」
彼の真の名を呼ぶ、声があった。
呂馬童は、はっとして振り向いた。
その先には、戻した記憶の中にある顔が、あった。
「呂馬童!生きていたんだね、、、何てことだ!」
まだ少年のあどけなさを残した男が、破願して駆け寄って来た。
呂馬童は、叫んだ。
「お前は、、、まさか、小楽か!」
呂馬童もまた、小楽が生きているとは、夢にも思わなかった。
もし彼が本当にあの楚兵の小楽ならば、年月は経ったのだ。面影は強く残していても、彼はもう以前の少年兵では、ない。
小楽の目から、涙があふれた。
「まさか、あなたが斉軍の中にいたとは、、、」
「おお、小楽か、小楽なのか―」
呂馬童は、彼の両肩を、震える手で抱きしめた。
呂馬童は、言った。
「私は戦に敗れて、記憶を失っていた。その間に、その間に、項王は、ついに―!」
彼もまた、涙をあふれさせた。
「ああ、、、もう、おしまいだ。おしまいだ!」
呂馬童は、今やどうしようもない運命を嘆いて、小楽と共に泣いた。

          

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第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
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