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二十五 四面楚歌(1)

(カテゴリ:垓下の章

垓下の城に、夜が来た。

昼の戦で、項王は結局討たれず、城の中に撤退した。
だが、彼と共に城に逃げ延びた兵の数は、あまりに少なかった。
今日の戦で、楚兵は大半が討たれ、捕らえられて終わった。
組織としての楚軍は、すでに壊滅した。
城の中には、糧食がない。
残された兵を食わせるための、明日の食の分すら、尽きていたのであった。
もう項王は、漢軍と戦えない。
西楚覇王の時代は、終わった。
城の外では、今日の戦で大勝した諸侯軍が、ひしめき合って取り囲んでいた。
全軍の指揮を執る韓信は、包囲する将兵に対して、勝利に浮かれ騒ぐことも、火を焚くことも禁じた。
「冬だ。大風が吹けば、焚いた火が吹き飛ばされて、我が軍に燃え広がらないとも、限らない―」
これほどに敵を圧倒しているにも関わらず、韓信は、慎重そのものであった。
かつて項王を討ちに彭城に侵入した漢軍はじめ諸侯五十六万の兵は、一夜の士気の緩みの隙を突かれて、項王の奇襲に惨敗したものだ。そのときの総軍の指揮者もまた、韓信その人であった。
彼は、垓下城を眺めながら、中にいるはずの項王をいかに扱うべきか、思案していた。
城からは、一筋の光も漏れ出して来ない。
垓下城は、深まる闇の中に、沈んでいた。
時は、しばし流れた。
夜半の、時刻となった。
この頃、垓下城を何重にも包囲する諸侯軍の将軍たちに、奇妙な命令が伝達されて来た。
命令は、このようであった。
― これより、全軍をもって、歌うべし。
以上、これだけであった。
諸将は、命令の意味が分からず、首を傾げた。
やがて、軍中から選ばれた楽隊が、包囲の陣の前に、揃えられた。
急造された楽隊を率いていたのは、漢将の周勃であった。
彼は、沛の庶民時代、葬式の簫(ふえ)吹きとして、城市では有名であった。
天下に風雲が起こる前は、たかが簫を吹いて、蚕室の牀(とこ)を織る百姓でしかなかった。
それが、今や諸侯の一角で、将軍に成り上がった。
それまでに、十年すらも経っていない。
いったい彼に、何が起こったのか―?
これから、彼と彼の子孫は、貴人として代々民を支配し続けていくと、言うわけなのか。いったい、なにゆえに彼にそのような資格が、与えられたのか―?
つまり、これが天命とかいう、謎なのであるか―?
だが今は、考えない。どうせ考えても、もと百姓の彼には、きっと死ぬまで分からない。
今の周勃は、昔の百姓時代のままに、楽隊を先導して、簫を吹いた。
細い竹を何本か横に並べて、束ねて作った、素朴な楽器であった。
本当の彼は、この簫吹きの技が、一番うまい。
兵を率いたり、弓を射たりすることなど、彼の本当の姿ではなかった。
ましてや、沛の周勃ごときが、諸侯などとは―
などと考えることも止めて、周勃は吹いた。
細竹の口から、高くて、もの淋しい音色が、響き渡った。
葬送の調べは、城の中の楚軍たちを、送るためであろうか。
楽隊が、彼の簫に、音を合わせた。
今日の戦で捕らえられた楚兵たちが、楽隊と共に包囲する陣の前に、連れて来られた。
彼らは、促されて、一つの歌を歌い始めた。
ごく短い歌で、すぐに歌い終わった。歌い終わると、楽隊の音と共に、楚兵たちはもう一度繰り返し歌わされた。
他国の将兵たちは、不審に思いながらも、命じられたことであるので、聞き取ったままに真似た。
やがて、ぎこちない合唱が、包囲する軍中に、伝わって行った。
このような、歌であった。

大風起兮雲飛揚

威加海内兮歸故郷

安得猛士兮守四方?

― 大風起コリテ、雲、飛ビ揚ガル
威ハ海内ニ加ワリテ、故郷ニ帰ル
安クニカ猛士ヲ得テ、四方ヲ守ラシメンヤ?

「、、、この、歌は?」
韓信は、垓下城の項王に対して、もう全ては終わったことを、知らせたいと思った。
項王の、心を撃つ。
彼をついに果てさせるには、それが最もよいと、韓信は結論した。
韓信は、漢王のもとに赴いて、相談した。
何か、項王の心に突き刺さるような、降伏を促す言葉はないだろうか。
漢王ならば、それを知っていそうであった。彼は、人物を見抜く。
韓信に相談された漢王は、しばし考えた。
「― ふむ。」
漢王は、一つのことを、ひらめいた。
彼は、しばし韓信に待つように言ってから、命じて筆と絹一片を持って来させた。
漢王は、持ち込まれた絹の上に、思い出しながら、書き下ろした。
書き終わった後で、彼は懐から一巻の小さな書簡を取り出し、自分の記憶した印象に間違いはなかったか、照らし合わせるように眺めた。
間違いないことを確かめて、漢王は、莞爾(にこり)とした。
彼は、再び韓信の前に出て、書いた絹一片を手渡した。
「大風の、歌。これを、項王に聞かせるべし、、、包囲する軍、全ての声で。」
絹の上には、さきほどの内容の歌が、書かれてあった。
わずか一聯三句の、短い歌であった。
韓信は、その歌を読んだ。
読んでから、彼は首を傾げた。
「― 聞いたことのない、歌だ。」
これは、楚の形式の歌に、間違いない。楚は、韓信の郷里である。韓信の歌謡に対する乏しい知識をもってしても、楚の歌謡の形式が中原諸国の形式とは違う独特のものであることぐらいは、知っている。
だが、初めて聞いた、歌であった。
よい歌であるのは確かなのだが、それがどのような意味を項王に持つのかは、彼には分からなかった。
韓信は、自分の楽才のなさを、思った。
「残念ながら、私には分からない、、、こんな歌で、項王に届くのですか?」
漢王は、笑ってうなずいた。
そして、それ以上を語らなかった。

          

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第二章 伏龍の章


           
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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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