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三十一 風吹いた後に(1)

(カテゴリ:垓下の章

全ては、終わった。

項王が逃げも隠れもせずに、敵の真っ只中で自害したことが、戦後の処理を容易なものにした。
「― 終わったか。」
韓信は、王翳という者が項王の首を持ち帰ったという報告を聞いたとき、興奮もせずに、つぶやいた。
韓信は、命じた。
「灌嬰に、伝えよ。楚地の平定は、暴虐をもってするべからず、と。」
彼の別将として働いた灌嬰軍が、項王を逐って殺した主役であった。
灌嬰軍は、余勢を駆って、楚地の隅々にまで兵を進めていた。
韓信は憂えて、独り言った。
「もう、項王は死んだのだ。殺伐として敵を亡ぼす戦は、もう要らない。新しい時代が、始まったのだ―」
だが、新しい時代となって、彼はどこに生きる場所が、あるだろうか。
その答えは、彼の持っているところではなかった。
韓信は、陣営を引き払うことを、配下に命じた。
漢王から彼に、共に勝者として諸国を凱旋するべき申し出が、伝えられていた。
項王の首を携えて進み、戦が終わったことを、広く諸国に知らしめなければならない。
韓信は、陣営から退きながら、独り言を続けた。
「戦の時代、、、英雄の時代。それが、終わったのだ。喜ばなければ、ならないのだ、、、」
彼の足取りは、どこかしら力が抜けたようであった。

項王が亡んだ後、諸侯はまことに現金であった。
戦後の恩賞を求めに群がった先は、項王と戦って勝った、韓信ではなかった。
諸侯は、韓信のことを、見抜いていた。
彼は、恩賞を与えて手なづける政治を行なえる、君主ではない。
天下を差配する覇王は、結局のところ、漢王であった。
諸侯も、諸将も、ことごとくが漢王に認めてもらおうと、殺到した。
韓信の周囲は、戦後淋しいものであった。
それに引き換え、漢王の勢威は、高まるばかりであった。
漢王は、次から次へとご機嫌伺いにやって来る諸侯に対して、いっぱいの笑顔をもって武功を称え、愛想を振りまいた。
彼の横には、常に軍師の陳平が、控えていた。
諸侯や将軍たちに漢王が口約束すべき匙加減を、彼は事前に漢王に対して、適確に助言して行った。
ひととおり済んだ頃、陳平は漢王にささやいた。
「ご即位への道筋が、見えました― 帝位に、昇らせたまえ。」
そう言って、彼はにこやかに笑った。
漢王は、聞いて鼻先を掻いた。
「― 早いな。」
陳平は、謹んで言上した。
「時の、勢いです。昇るべき時に昇らねば、やがて悔いがあります。」
漢王は、にやりとして、言った。
「先手を、打つわけか。」
陳平は、笑う口先を、わずかに歪めた。
段取りは、決まった。
これより直ちに、諸侯を引き連れて、凱旋する。
まず北に向かい、楚領を通って、楚の属国である魯を服属させる。
それから斉、燕、梁、趙の諸国を従え、進んで、中原に入る。
「正月には、諸侯より皇帝への推戴を受けましょう。翌月、氾水にて、ご即位の儀。仮の都を洛陽に定めて、よろしく帝業を始めさせたまえ。」
今や、陳平は、漢王の前で平伏して、言上していた。
漢王を、漢の高祖皇帝として、跪拝していた。
漢王は、陳平の跪拝を受けて、彼に言った。
「即位への道は、それでよい。だが朕の心中の憂いを除く策は、できておろうな。」
彼は、陳平の演技にふざけて乗じ、早くも皇帝の自称を、用いた。即位の後は、彼だけが朕と名乗ることが、許される。
陳平は、平伏しながら、申し上げた。
「諸侯を納得させるためには、陛下と斉王とが、並んで凱旋しなければなりません。項王を倒したのは、陛下と斉王の二人の功績であることを、天下に知らしめる。まず、これが第一の手順です―」
陳平は、斉王韓信を陥れる策を、未来の皇帝の前で述べ始めた。
だが、今は最後まで、言うわけにはいかない。
彼の策は、巧妙にして微妙であった。
韓信を永久に抹殺するためには、主君にすらその全貌を、明かすわけにはいかなった。
今の彼は、とりあえず韓信の力を奪うための、前段階の仕込みを説明するに留めた。
陳平は、続けた。
「魯を平定してから後、進んで斉国との境の定陶にまで、至ります。そこで―」
陳平は、小走りでにわかに駆け寄り、皇帝の耳元に口を寄せた。
漢王は、軍師のささやいた内容を聞いた。
彼は、喜びもせずに、軽くうなずいた。
「― そこで、これから朕の皇帝としての仕事が、始まる。」
陳平は、微笑んだ。
定陶で、いきなり韓信から兵権を奪ってしまう。
韓信には、定陶から先、斉に入ることも、自軍を連れて行くことも許さない。
彼の身一つで、楚王として封地に向かわせる。
これで、韓信の力は、消え失せる―
かつて漢王が趙で行なった詐術の、繰り返しであった。
陳平は、言った。
「しかし彼は、必ず受け入れます。それが、韓信です。」
漢王は、言った。
「抵抗しない奴が、悪いのよ。」
皇帝として即位するからには、功過ぎた者は、始末しなければならない。
それが、政治の鉄則であった。
漢王と陳平は、国士無双韓信をつぶすための策を、誰にも告げることなく、密かに練り上げて行った。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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