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二 離間策第一(1)

(カテゴリ:背水の章

項王の使者が、六に到着した。
九江王は、項王の使者を宮城で盛大に歓待した。

九江王としては、使者を歓待して項王に悪意のないことを示すつもりであった。使者は、連日大いに酒食を勧められながら、しかし九江王から最も大事なことについて回答を得られないでいた。
ついに幾日目かの宴会の席で、使者は九江王に問いかけた。
「いま、天下は二つに分かれて争っていることを、もしや大王はご存知でないのでしょうか?」
九江王は、答えた。
「知らぬはずが、あるまい。」
使者は、言った。
「では大王と項王は、いったいどのようなご関係なのでしょうか?」
九江王は、答えた。
「寡人(それがし)は、北面して項王に臣事している。項王と寡人は、互いに楚を分かち合う仲である。」
使者は、畳み掛けた。
「互いに楚を分かち合う仲とおっしゃられるのならば、どうして楚の危機に引きこもっておられるのですか!今、項王は漢王と対峙して、どちらが勝つか混沌として分からない状態です。この使者が遣わされたのは、項王が大王のご出馬を心より待ち望んでおられるからなのです。項王の兵と大王の兵とが力を併せれば、漢を打ち破ることができます。日和見を決め込む他の諸侯どもなどは、ましてや言うに及びません。大王!、、、共に力を合わせて秦を打ち破った項王のことを、今になってどうして傍観しておられるのですか!」
使者は、必死になって説得しようとした。
九江王は、渋い顔をするばかりであった。
答えようとしない大王に対して、使者は苛立って言った。
「まさか、項王を裏切って、漢王に通じたとでもおっしゃるか!」
九江王は、慌てて否定しようとした。
「そのようなはずが、あろうか、そのような、、、」
にわかに緊張感を増した宴席の脇に、待機していた二つの影があった。
「― 今だ。行け!」
せっついたのは、陳平であった。
言われた随何は、まだ震えていた。
陳平は、随何に言った。
「必ず、成功する。信じろ。信じるんだ!」
陳平の催眠術に促されて、ついに随何は立ち上がった。
打ち合わせた通り、予告もなく宴席に踏み込んで、やおら九江王の横に座り込んだ。
「随何、、、!」
九江王は、驚いた。
随何は、上座から使者に向けて言い放った。
「我は、漢王の使者である。九江王は、すでに漢に帰服なされて項王の敵と相成った。楚使よ、直ちに帰るがよい!」
宴席の全体が、愕然とした。
たちまちに、華やかな宴席は恐慌の渦に巻き込まれた。
「― 九江王の真意、見えたり!もはや、我ら楚使は立ち去るのみ!」
誰かが、声高に叫んだ。
項王の使者の一団は、促されて席を蹴った。
「許さん!九江王の裏切り、決して許さん。目にものを、見せてくれるわ、、、」
そのように叫びながら、退席する使者の後ろを押して立ち去っていくのは、いつの間にか紛れ込んでいた陳平であった。
あまりの急変に、九江王は座ったままで震えていた。
彼は、横に座る随何を見た。
随何は、ぼろぼろと涙を流して、大王に言上した。
「― これも、大王のためでございます、、、」
随何は、ひたすら平伏して大王に言った。
九江王は、震えが止まらずに言った。
「何ということを、してくれたのだ、、、」
随何は、言った。
「すでに、項王と大王は道を違えているのです。大王が項王のために出兵しようとなさらなかったのは、大王が項王の覇道に疑問を持っておられるからです。新安の虐殺に手を汚され、咸陽での屠城に付き合わされた大王のお心の苦悩、それがしにはよく分かります。なのに項王は斉でも彭城でも暴虐の戦を続け、大王に破壊の手助けを頼むばかりです。項王は強いですが、彼は天下の患いです。力で勝っても、彼は決して天下を治めることができません。漢王は、それがしに約束いたしました。大王が漢に帰服なされば、漢は必ず淮南の地を割いて大王に献じられます。漢と大王が力を併せて西と南に陣取れば、項王は動くこともできずに数月のうちに敗れ去ることでしょう。それが、大王の今後に与えられた唯一の道なのです。どうか、それがしの言葉をお疑いなさいますな、、、」
随何は、泣きながら必死に説いた。
彼は謁者などの職にあったが、もとより使者としての胆力に足りなかった。それで、少しも日の目を見る機会を得ることができなかった。しかし、彼のひたむきな心性が、ついにこの大事な場面で発揮された。
九江王は、黙り込んだ。
随何の言葉は、彼の心をよく表していた。
王は、随何を哀れんで、言った。
「もはや、事は済んだ、、、お言葉に、従うことにしよう。」
決断した九江王は、早かった。
退席した項王の使者を帰さず、斬って捨てた。
九江王と項王は、こうして手切れとなった。
陳平は、策が見事に当って哄笑した。
彼は、上機嫌で随何に言った。
「ようし、逃げるぞ、、、もうすぐ、項王軍が怒って攻めてくるからな。」
随何は、仰天した。
「項王は、動かないのではないのですか!」
陳平は、一笑に付した。
「あほか。あの項王は、感情に任せて動く人間だよ。漢など後回しにして、こちらに攻め寄せて来るに決まっている。お前は、これから九江王と漢との橋渡しとなって、九江王が敗れたら漢に亡命する道筋を整えておくんだぞ。」
陳平は、すでに逃げる用意をすっかり整えていた。
「ぐずぐずするな、出るぞ!」
陳平は、馬車の座席から、随何を急っ突いた。
随何は、言った。
「大王を陥れて、このまま逃げるなんて―」
陳平は、随何がいまだに黥布に心を寄せているのに鼻白んで、彼を一喝した。
「混帳(どあほう)!、、、勘違いするな。大王とは、漢王のことだ!」

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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