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一 策士の策(2)

(カテゴリ:背水の章

黥布は、真の姓名を英布という。

黥(げい)は彼の面相から取った通称であって、顔の入墨を意味している。その名の通り、彼は秦時代に罪を得て、顔に入墨を付けられた。その上に、刑徒として驪山の工事現場に送られた。しかし黥布は、脱走した。逃げて盗賊の群れに身を投じ、いつしか闇で勢力を増していった。
彼は何の富も地位も持たぬ庶民の家の出であったが、親から雲突くような巨体を貰っていた。そのうえ顔面に入墨を彫られて、ますます外見の凄みが増した。しかし、彼の本領はこのどぎつい外見の奥にある、冷静な判断力とむしろ人を好む性分であった。黥布は外見でまず人を驚かし、それから人を厚遇して親しんだ。その意外なまでの落差が、人を懐かせるのに効果があった。それが、彼が秦に追われながら闇で生き続けることができた、秘訣であった。
始皇帝が倒れて反秦の争乱が沸き起こると、彼は表の世界に再び現れた。南楚の実力者である番君(はくん)に見込まれて娘を娶り、彼から借りた兵を率いて秦軍をたびたび破った。以降、項梁の旗下に合し、項梁の死後は甥の項王に従った。黥布の軍は、楚で項王の江東軍に次いで強く、その実力は倒秦の戦で存分に発揮された。項王は黥布を楚軍の中でも功績第一として、彼を王に引き上げて南楚の広大な領地を任せたのであった。
九江王となった黥布の都は、六(りく)にあった。彼の郷里でもある。
かつて刑徒となって闇に消えた男は、今や郷里の大王となって帰ってきた。栄華の極みを得て、多くの家族や仲間たちと共に豪奢な宮殿を構えていた。南楚の果てにある鄙(ひな)にすぎない六は、突然に出世した男の本拠地として、にわかに人を聚(あつ)めて賑わいを見せていた。
宮廷の料理を司る太宰(たいさい)の屋敷には、慌しく人が出入りしていた。
大王を訪れるべき賓客のための食材を、調達しなければならなかった。今度の客はとりわけ丁重に扱うべしと、大王から指示が下った。六の民は下命によって、珍味を次々と送り届けて来た。鯉だの鱔(たうなぎ)だの鼈(すっぽん)だのが、生きたまま屋敷に運び込まれた。
その屋敷の一室で、随何は今日ものんびりと宿泊していた。
彼は、六に滞在している間、太宰の屋敷を借りて寝泊りしていた。大王はずいぶん彼を厚遇してくれるので、好意に甘えていつまでも留まり続けていた。同行の者たちには、自分は漢と大王との友好を深めるために尽力しているのだと、言い訳していた。
どかどかと相変わらず慌しい屋敷の中で、また別の靴音が響いた。
「忙しい、ことよ、、、ははは。」
忙しくない随何は、のん気に笑った。
靴音が、近づいて来た。
靴音は、ついに随何の部屋の中に踏み込んできた。
「― お前、ずいぶんと楽な使者であるな!」
入って来た男の声に、随何はびくりとした。
男は、事務的な調子で詰問した。
「答えよ。お前は、実のところ九江王からどれだけ約束を得たのであるか―?」
突然現れたのは、陳平であった。
彼は、今後のことを指揮するために、自らこの六に駆け付けて来た。身軽さと節操の無さは、彼の一番の持ち味であった。陳平は、随何のことなど何一つ評価せず、しかし随何が偶然起こした波乱に嗅覚を働かせて、すかさず付け込む策を持ってやって来た。
陳平は、随何から本当の経緯(いきさつ)を問い質した。
果たして本当のことを言えば、黥布は漢王に従うなどと言った覚えは何一つなかった。
彼はただ、項王の暴虐な戦にこれ以上付き合うことが、厭わしかっただけであった。項王の戦は嫌っていたが、それで項王を離れて漢に付こうと決意したわけではない。項王以上に、漢王は黥布にとって信用が置けなかった。
ただ、随何のひたむきな人物が、黥布の気に入った。
それで彼を引き止め、厚遇してやった。彼は、敵国の使者でもよき人物だと認めたならば、親しく扱うことを好んで行なった。彼がこれまで人心を獲て来た、常のやり方であった。
随何は、当世の英雄として名声高き大王から親しく遇されて、大いに気を良くした。彼は、すっかり大王に心を許してしまった。漢の使者である自分を下にも置かせず親しく留める大王は、間違いなく自分の言葉に心を動かされたのだと、思い込んでしまった。
その思い込みの結果が、漢王への返信であった。結局、陳平がよくよく問い質してみれば、真実は全く随何の希望的な夢想にすぎなかった。
陳平は、真実を理解して、随何に言った。
「やはり、お前ごときに九江王の説得など、無理であったことよ。人物の、格が違うわい。」
随何は、陳平から厳しく問い詰められて、すっかりしょげてしまった。
陳平は、言った。
「まあ、それでもお前の使い道はある。よいか。俺は、お前に功績をくれてやるために、来たのだ。今、この太宰が忙しくしている理由は、分かっているだろうな?」
随何は、首をかしげた。
陳平はあきれて、はっ!と短くため息を付いた。
「そんなことも、調べていないのか。あれは、項王の使者を接待するためだ。項王は、漢を攻めるために九江王に出兵して欲しいのだよ。それで、彭城から使者を寄越したのだ。」
項王は武力で再び覇権を取り戻したものの、しかし項王のためにすすんで漢を討ってくれる諸侯は現れなかった。項王は、結局これからも自分と自分の軍を頼りに、漢と戦い続けなければならなかった。
その彼が唯一頼るべき諸侯が、九江王であった。それで、項王は何としてでも九江王を出馬させたかった。項王と九江王の精鋭が力を併せれば、漢を突き破って追い詰めることができるだろう。
彭城からの使者は、孤立する覇王が放った、かぼそい他人への信頼の綱であった。共に闘った盟友のことを、項王は信じたかった。
陳平は、続けた。
「九江王は、進退を迷っている。そしてお前は、九江王に気に入られている。そこで、俺の言う通りに事を進めるのだ―」
陳平は、随何に顔を近づけて、耳打ちした。
随何は、その内容を聞いて、恐怖で震え上がった。
陳平は、彼を叱咤した。
「出世したくないのか!、、、無能のお前が、功績を挙げられる生涯一度の、機会であるぞ!」

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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