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一 策士の策(1)

(カテゴリ:背水の章

漢二年、東西の戦線はしばらく膠着した。

漢王は関中に戻って、櫟陽(やくよう)にて嫡男の盈を太子に立てた。
櫟陽には配下の諸侯の子弟たちが集められて、彼らには太子を守護することが命じられた。
まだまだ続く戦ではあるが、この際に劉家の支配体制をはっきりと整えた。漢王は、これからも前線で項王と戦い続けるつもりであった。それゆえ、彼には命を落とす危険がある。万一の時に備えて、漢室を続かせることも考えなければならなかった。その太子には、今項王の下で人質となっている正后呂雉の産んだ子を選ばなければ、余人に申し開きが立たなかった。愛妾の戚氏にも子があり、漢王の心はずっとそちらに傾いていたが、彼はこのたびばかりは政治を優先することにした。
関中に戻った際に、雍王章邯を追い詰めて自決させた。
これまでの漢王は、降った諸侯は必ず許すという宣伝を行なっていた。章邯は廃丘でとっくに包囲されて勝負は付いていたが、漢王はこれをあえて亡ぼさずにいた。天下に聞こえた名将章邯を許すという宣伝の効果を、惜しんだためであった。
だが、もはやそのような仮装は必要がなくなった。これからの漢は、実力をむき出しにして項王に当るべく方針を変えた。
「― 言い残すことは?」
自決を見届けるために城内に赴いた使者に、章邯は答えた。
「狗(いぬ)は、、、狗死にしかできない。」
章邯は、感情も枯れ果てて、それだけを言い残した。
名将も、しょせんは権力の狗であった。自分の力で立つには、彼は一個の道具を越えることができなかった。この人間世界においては、時代が待ち望んでいた役に立つ道具は、休むことも許されずに使われる幸福を得るであろう。しかし、千人を殺傷した名剣も良弓も、それを使う持ち主が折り棄てることは、石に叩きつけて砕くだけの一瞬である。もし道具が生き延びようと欲するならば、自分の足で歩いて持ち主を殺し、自分が主とならなければならない。章邯は、その飛躍ができる人間ではなかった。彼は、道具であることに満足する性であった。ゆえに、道具としての末路を辿ることとなった。だがそれは、どうして彼の咎であるだろうか。
こうしてひとしきりの仕事が済んだ後、漢王は関中を丞相の蕭何に任せて、再び前線に取って返した。
滎陽では、要塞の補強が韓信の指揮で着々と進められていた。
巨大な食糧庫の敖倉(ごうそう)から、甬道(ようどう)が引き込まれた。
道の両側を壁で厚く覆い、食糧の輸送路が外敵に攻撃されることを防ぐ工事であった。かつて章邯が趙攻撃で取った策と、同様のものであった。
「この工事を見て、項王はまた趙での戦と同じく、甬道を破壊しに来るでしょう。」
韓信は、漢王に言った。
漢王は、懸念した。
「章邯は、甬道を破られて項王に負けたではないか、、、同じことではないのか?」
韓信は、答えた。
「この籠城戦じたいが、囮なのです。項王は、必ずこの防衛線を破るために、全軍を集中して来ます。漢は、章邯が犯したように項王と正面衝突する愚を避けて、ひたすら滎陽・成皋・広武山の線で守備に徹する。その間に、漢は版図を広げていくのです。」
韓信は簡単に説明したが、彼が内心描く展望はもっと困難なものであった。
― 私が思っているほど簡単に戦い通せるならば、項王をとっくに倒すことができたはずだ、、、
項王は、これまで敗北必至のはずの戦に、奇蹟を起こして勝ち残って来た。
その項王をついに追い詰めるためには、我らはあらゆる手段を取らなければならないであろう。
漢軍は、すでにその手段に手を付けていた。
狙う標的は、二人の男であった。
一人は、昌邑の盗賊王、彭越。
全身これ欲望の塊と言ってもよい、兇悪にして狡猾な獣人。
漢王は、この獣人と攻守同盟を結んだ。彭越は、漢王だけが天下で頼りになることを、改めて認めた。漢王もまた、彼の狡猾さこそが役に立つことを、躊躇もなく認めた。両者は再び合意して、互いの欲望達成のために項王を叩くことを誓い合った。
そしてもう一人は、九江王黥布であった。
黥布は、項王が最も頼りにする盟友のはずであった。
しかし、黥布は項王が斉の田栄を攻撃しようとした際に、病気と称して外征に参加することを拒んだ。それ以来、黥布は項王のところに赴くことさえせずに、国に引き籠って時を空費していたのであった。
たまたま漢王は、彭城から撤退する際に、黥布に向けて友好の使者を送り込んでいた。
使者の名は、随何といった。
彼は謁者(えっしゃ)という大した重みもない低位の外交官であったが、漢王に自ら提案して九江王を説き伏せることを願い出た。漢王はこれを許して、随何に一通りの使者の格式を与えて黥布のもとに赴かせた。
正直のところ、漢王はほとんど何も期待していなかった。随何を送ったことなどは、単なる苦しまぎれの捨て策以上の何ものでもなかった。
ところが、思わぬよき結果が出た。
随何が返して来た報告によると、九江王は彼の巧みな説得に心動かされて、密かに項王から離れて漢王に従うことを内諾したと言うのである。随何ごときに、そのような話術があったとは誰も思わなかった。彼が出世の糸口を見つけたとばかりに、命を張って奮起したのであろうか。あるいはそれとも、単なる偶然の神が微笑んだだけなのであろうか。
だが、経緯(いきさつ)はどうであれ、報告を聞いた陳平は直ちに漢王に進言した。
「― この機会を、逃してはなりません。九江王の背中を、一挙に押してやりましょう。」
彭城の敗戦の後、陳平はいつの間にか飄々と漢軍に戻って来た。都尉から進んで副将に任じられ広武山の守護を仰せつかり、するすると戦前よりもさらに大きな支配力を軍中で育ててしまった。今や、病気がちな張良に代わって、漢王の側でますます軍師の地位を固めるようになっていた。
陳平は、彼の発案した黥布を陥れる策を、漢王に吹き込んだ。
陳平は、言った。
「随何ごときの話術で、九江王が項王を裏切るはずがありません。しかし、彼が逡巡する隙を見せたのは、確かなことです。ならばその隙を、巨大な裂け目にしてしまいましょう―」
陳平は、しごく陽気に笑いながら、姦悪な策を説明した。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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