『知兵之将』は、毎週月~土に更新予定です。


「知兵之将」は、二千二百年前を舞台とした現代小説のつもりで書いています。だから、時代設定は古代中国ですが、出てくる人間たちは完全に現代人です。「二千二百年前の古代人がこんなことを思ったわけがねーじゃん!」― ごもっとも。しかし、シェークスピアだって坂口安吾だって、歴史上の人物を現代人の一人として書きました。だから、私も彼らの顰(ひそみ)に習おうと努力したいと思います。しかし、一つだけ申しておきたいことは、二千二百年前の古代中国は、我々が想像している以上に合理的・相対主義的・かつ無神論的な考えが浸透していた印象を、私は深く持つのです。


― 作者の序 ―


二千年以上前の中国大陸に、沸き立つ社会があった。

人々は、その時代に生きる中で、「なぜ?」を問う魂を持って生きていた。

時代の向こうに、人間の欲望渦巻く業の向こうに、何があるのだろうか。それを問い掛ける時代。それが、中国大陸の戦国時代であった。

だから、この時代の、最後の輝く瞬間を書きたいと思った。暫定的な答えを出す、その寸前の瞬間の年代記。不世出の君主であった始皇帝が成し遂げた、天下の統一。その統一が崩れて、項羽の楚帝国と劉邦の漢帝国との争いが起った。最終的に漢が勝利し、以降二千年以上続く古代帝国の形が決まった。その遺産は、現代の中国大陸にも大きく影を落としている。

タイトルは、『孫子』作戦篇の以下のくだりから取った。

「故に知兵の將は、民の司命、国家安危の主なり。」

(だから兵を知る将軍は、人民の命を左右する者であり、また国家の安全と危険の主宰者なのである。)




~以下、最新の執筆文です~



«« 前回”二十六 勝つのは俺だ(1)”



2008年05月12日

二十六 勝つのは俺だ(2)

兵という凶器を操って、戦という殺し合いの場で結果を出せるかどうかという、武将としての才能について、漢王は項王に遠く及ばなかった。

            

せっかくの漢軍の優勢が、たちまちにふいになった。
敵を侮った漢王は、当然の報いを受けた。
敵と正面から立ち向かったのは、殊勝であった。しかし、敵を知らず、自軍を知らず、国家の資源を浪費して、自分の身すら危くなった。
誰か他人の力を借りない限り、漢王に将才はない。それが、結論であった。
だが、漢王には、一つだけ凡将にはない才能があった。
「― 逃げる!」
彼は、成皋に入ったその時から、自分の判断が過ちであったことに気が付いた。
楚軍は信じられない速度で滎陽を陥とし、怒涛のように成皋を押し包んで来た。
その敵軍の勢いを見た瞬間に、彼は逃げる判断をした。
「逃げるぞ。夏候嬰!馬車を出せ!」
夏候嬰は、呆れた。
「真っ先に逃げて、守兵はどうするのですか!」
漢王は、部下を一喝した。
「守兵など、知るか!奴らは、俺の命を狙っているのだ。俺が逃げることが、大事だ!、、、おーい、物ども、ぐずぐずするな!包囲される前に、逃げ出せ!」
漢王は、漢軍の首脳たちに、成皋を捨てて逃げることを命じた。
富強な漢軍にとって、兵卒などは使い捨てである。王と、首脳たちが生き残れば、いずれまた再起できる。漢王は、その結論に飯時を選ぶような自然さで、至った。
極限の瞬間に、情などに迷わされず、己の利益を計算して素早く動く。
己が生き残るために見せるここぞという時の漢王の判断力は、動物的ですらあった。漢王の、大才であった。
夏候嬰の御する馬車は、城の北門から遁走した。
成皋は、項軍が包囲してから、程なく陥ちた。

「負けた、、、」
夏候嬰の御する馬車は、主君を乗せて、全速力で逃げ出していた。
漢王は、爽快なまでに速く、それなのに揺れもせず進む夏候嬰の運転が、何よりも好みであった。
「負けた、、、」
彼は、座席に腰を降ろして、頬に快く当る風を、敗残の身の慰めとしていた。こんな敗走は、いったい何度目であろうか。
夏候嬰は、振り向きもせずに、馬の手綱を精妙に操っていた。
後ろの男が主君であり、王であるから、彼に従うのは是非もないことであった。彼には、勝ち残ってもらわなければならない。すでに漢は、天下の大諸侯なのである。沛以来ずっと付き従って来た夏候嬰が、今さら裏切るわけにはいかない。漢王国は、漢王のものだけでなくて、沛以来の者どもの国でもあった。
後ろで、漢王がわめき散らした。
「負けた!負けた!、、、また、負けた!」
漢王は、頭を抱えた。
「どうして、こんなに弱いのか!なんで、項羽一人に勝てないのか!」
夏候嬰が、振り向きをせずに、主君に言った。
「項羽は、それだけ強いのです。お言葉ですが、大王が正面から戦って、勝てる相手ではありません。」
漢王は、怒りと嘆きをないまぜにして、言った。
「俺は、もと沛の泗水の亭長だ。馬に跨り剣で斬り結ぶのは、俺のするべきことではない。俺の配下が、項羽と戦わなければならん。なのに、俺の配下は、束になってもあいつに敵わない。なんと俺の下には、人がおらぬことよ。能無しだ。全く、能無し揃いだ!」
夏候嬰は、むっとして言った。
「能無しで、申し訳ないですな!」
勝てないならば、無理に戦ってはならない。
それが、主君の取るべき判断であった。
なのに、今回の漢王は敵を侮って、攻撃を強行した。その判断が、悪いのである。責めは、全て漢王にあるはずであった。
夏候嬰は、言った。
「大王。あなたこそ、もっと己を知られよ。あなたのために、またも何という惨敗だ、、、」
漢王は、座席から怒鳴った。
「己のことぐらい、知っておるわ!」
夏候嬰は、返した。
「ならば、なんで項羽に勝つ見込みもないのに、戦ったのですか!」
漢王は、苦渋の声色で、返した。
「黙れ!、、、俺には、俺の考えがある。今の俺は、のうのうと引き籠っておられないのだ。戦って、俺もまた勝てることを、見せ付けなければならない。だが、、、」
とたんに、漢王の中に、屈辱と怒りの感情がこみ上げて来た。
「― 今ごろ俺の敗北を、笑っているか、、、孺子(こぞう)!」
漢王の脳裏に、項王の姿が写った。
彼の若く、勇ましく、そしてあまりに美しい姿が、羨ましく妬ましかった。漢王には、決してないものであった。
だがすぐ後に、項王には到底勝てそうにないと、思った。彼は、神人であった。神人に嫉妬するのは、よくない。
それで、漢王は考える先を変えた。
自分がまたも武勇の名を傷付かせた中で、あの若い天才は、さらに天下に浮かび上がるであろう。
「俺は、奴にも劣るというのか―!」
漢王の額に、青筋が走った。
そのとき、彼にひらめくものがあった。
「夏候嬰。」
漢王は、前に向けて声を掛けた。
「はっ!」
答えた夏候嬰に対して、漢王は、命じた。
「― このまま、北へ向かえ。」
夏候嬰は、聞いた。
「北?、、、どちらへ?」
漢王は、言った。
「河を、渡るぞ。修武に、行く。」
夏候嬰は、ぴんと来た。
「― 韓信の、ところへ。」
漢王は、答えた。
「お前と、俺の二人だけだ。」
夏候嬰は、一息付いた。
「大王、、、あんたには、呆れる。」
漢王は、笑った。
夏候嬰も、笑った。
漢王を乗せた馬車から、敗走の最中にも関わらず、高笑いが聞こえて来た。
漢王は、意気高らかに叫んだ。
「俺が、天下の主だ!、、、俺が行くところに、人は道を空ける!」
夏候嬰は、気合の抜けた声で応えた。
「なんという、人だ、、、」
漢王は、自ら招いた敗北を、自らの手で勝利に変えるために、北へ進んだ。


― 第八章 背水の章・完

(カテゴリ:背水の章


《ネット投票ランキング》
ネット投票ランキングに投票
《にほんブログ村ランキング》
にほんブログ村 小説ブログへ





          

各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章

           
第十章 挽歌の章