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二 離間策第一(2)

(カテゴリ:背水の章

陳平らが滎陽に戻った後を追って、漢にとっての朗報が舞い込んだ。

しかし、民にとってはまたも悲惨であった。
項王と九江王とが、ついに戦端を開いた。
項王軍は、淮南の地で九江王の軍と激突した。楚の精鋭同士の討ち合いで、勝敗はすぐに明らかとはならなかった。
陳平が、漢王に言上した。
「これで、共食いです。おそらく九江王は、項王に負けるでしょう。しかし項王は勝ったとしても、右腕をもがれて力は半減です。戦の間、項王は西にかまけることができません。現在進行中の要塞の工事も、はかどることでしょう。一石二鳥の、効果が出ました―」
陳平は、わはははと笑った。
漢王は、頬に手を付きながら、苦笑するばかりであった。
陳平は、漢王のもとを去った後で、随何に会った。
随何は、戻ってから鬱鬱としているばかりであった。
だが陳平は、随何にもう一働きしてもらわなければならなかった。九江王は項王に敵わぬであろうが、彼の将才は漢にとって大いに役に立つであろう。随何には、九江王を漢王のところに案内する仕事を受け持ってもらわなければならなかった。
陳平は、随何に言った。
「何を、引っ込んでいるのか。早いところ、漢王の前で自分の功績を力いっぱい主張しないか、、、俺は、助けてやらんぞ。」
随何は、憮然として陳平に言った。
「、、、あなたは、悪いやつだ。」
陳平の悪い噂は、軍中でも相当に聞こえていた。彼をよく思わない漢の生え抜きの諸将たちが、陰に陽に吹聴しているのであった。
陳平は、軍監という地位を利用して、漢軍の上下の将官から巨額の賄賂を取っていた。
陳平は、平気であった。
「― 俺は新参者で、皆様方のように子飼いの配下がいないんだ。だから、仕事をするためには金を使うしかない。必要だから、金を集めているだけだ。」
陳平は、漢軍に集まって来る商人どもに向けて、自ら糧米をせっせと横流ししていた。戦乱の続く諸国では米麦の値段が上がる一方で、商人どもは現物さえ手に入れば餓える地方に運んで売り捌くだけで大儲けできたのである。陳平は、彼らの強欲に気前よく応えてやった。
陳平は、批判に聴く耳を持たなかった。
「― 商人どもを飼い慣らせば、どんなに役に立つかを連中は知らない。奴らは、敵の軍中にも入り込んで貴重な情報を掴んで来る。正面から戦って敵を倒すなどは、戦のごく表層にすぎないのだ。」
さらに陳平は、昔郷里で嫂(あによめ)と密通していたという不義な経歴を持ち出して、なじる者があった。
陳平は、鼻で笑った。
「― 能無しどもは、今の働きを見ずに過去のあら捜しをしようとする。人が生れ落ちてから、他人に恥を行なわずに成長したためしがあるだろうか?」
諸将は陳平に不満であったが、漢王は構わず彼を親しく使い続けた。陳平は、主君に気に入られる術について、如才なく心得ていた。漢王にとっても、陳平は疑いもなく使える狗であった。彼の少しも偽善面しないところが、人間通の漢王にとってはむしろ表裏のない奴だと安心させる要素にすらなっていた。
陳平は、いつもの快活な調子で、随何の背中をばんばんと叩いて言った。
「お前は、九江王を翻意させた大人物として、史書にまで残るかもしれないぞ。何なら、俺が恰好良い武勇伝を、お前のために創作してやろう。歴史なんざ、たいていは大嘘が真っ先に生き残るものなのさ。大きな嘘ほど上手に創作されているから、人を信じさせて後世に伝えられるんだ。それが、歴史の真実なのさ、、、学者の君は、知らなかっただろう?へ!へへへ!」
陳平は、わざと意地悪そうに、大笑いした。

こうして項王は九江王を討つ破目に陥り、漢は項王の圧力から一時逃れることができた。
だが、別の憂慮すべき事態が立ち起こった。
西魏王の豹(ひょう)は、漢王に帰服して共に彭城を攻める兵を起こした、諸侯軍の一員であった。
彼は彭城で大敗した後、漢軍と共に西に撤退した。滎陽に入った後、彼は自分の領地に戻ることを、漢王に願い出た。
「― 戻って、臣の老母の看病をしなければなりません。」
漢王は、これを許してしまった。
許した後に、後悔した。
西魏王豹は、都の安邑に戻ると、河水(黄河)の渡しを断ち切ってしまった。
西魏王の変心を聞いた漢王は、しまったと舌打ちをした。
「諸侯に、心を許してはならなかった、、、分かっていた、はずなのに!」
西魏王が叛けば、漢は関中と滎陽との連絡路が、危機に瀕する。それは漢の戦略が、根本から揺らいでしまうことであった。
「酈生を呼べ!、、、酈生を。」
漢王は、呼ばわった。
酈生が、参内して来た。
「おお― 緩頬(かんきょう。弁論家)。お前の出番だぞ。」
漢王は、ぞんざいな言葉遣いで、酈生に話し掛けた。
酈生は、漢が建国されてからも変わらず、漢王の下で働き続けていた。彼の役目は、諸侯へ使者として赴き、漢のために帰順を説いて回ることであった。酈生は、漢王から与えられた仕事をこれまで忠実にこなし続けた。弟の酈商が将軍として各地で戦っているのに負けず、兄の彼も漢の勝利のために尽していると自負していた。しかし、最近の漢王の評価は、弟に比べてあまりはかばかしいものではなかった。
酈生は、今回の使命を聞いて、いつもながらに風格を込めて答えた。
「西魏王は、不信に凝り固まっているのでしょう。決して、項王に心を寄せたわけではございますまい。それがしが赴いて、天下の趨勢を西魏王に説き伏せましょう。漢に付くことだけが、天下を安んずる道であると。」
漢王は、よしよしとうなずいて、言った。
「とにかく!、、、成功したら、一万戸の邑をくれてやろう。先生は、最近子を持たれたらしいな?その年で、なかなかやるじゃねえか。」
酈生は、恥ずかしながらも、肯定した。
「、、、伝宗接代は、孝の道でございますので。大王のお陰で家産を得て、それがしも家庭を持つことができました。」
そう言って、頭を下げた。
漢王は、言った。
「ならば子孫のために、土地が必要だろう?、、、行って、西魏王を翻意させて来い!」

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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