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三 伝説の始まり(1)

(カテゴリ:背水の章

酈生は西魏王に使いして、持ち前の弁論術で説きに説いた。

しかし、西魏王は彼の話術に乗らなかった。
酈生が漢王と力を合わせることが諸侯の栄える道だと力説したら、西魏王は返した。
「― 嘘おっしゃい。漢王は、諸侯を全部つぶす肚積もりでしょうが!」
漢王の本心は、諸侯にとっくに見抜かれていた。
酈生の説得は実らず、西魏王は漢との交通を途絶したままであった。
「ちっ、、、役に立たねえな!」
漢王は、すごすごと追い返されて来た酈生を、口汚く罵倒した。
酈生は、言った。
「最近の大王の諸侯に対する姿勢は、仁義の道を通っているとは申せません。諸侯は、ゆえに漢から遠ざかるのです、、、」
漢王は、彼の指摘に怒った。
「俺は、もう仁君はやめたんだよ!、、、政治の分からん先生は、さっさと引っ込んでいなさい!」
酈生は、漢王に罵られて追い払われてしまった。
漢王は、諸将を集めた。
集まった諸将に、漢王は今後の対策を質問した。
「西魏王めが、あいつのおかげで俺の計画は台無しになりそうだ。さて、どうやって痛め付けてやろうか、、、?」
曹参が、言った。
「項王が攻めて来ない今のうちに、兵を送って平定しましょう。」
周勃が、曹参の意見に同調した。
「西魏王なんぞ、大したことねえよ。ひねり潰してくれるわい。」
灌嬰が、息まいた。
「裏切り者は、都を屠って今後の見せしめにすべし。そうと決まった!」
諸将は、めいめいに意見を出した。大勢は、西魏王の征伐であった。せっかく項王と対峙すべき局面に入ろうとした矢先に裏切った西魏王への対策は、膺懲(ようちょう)の一点に集中していた。
韓信もまた、諸将と共に漢王の御前にいた。
各人が口々に出兵を叫ぶ中で、しかし彼はいまだに一言も意見を出さなかった。
彼の内心の展望は、諸将の楽観論とは違っていた。
(この戦は、下手をすれば長引くだろう―)
西魏の土地は、河水(黄河)に行く手を遮られて、容易に漢兵を侵入させることができない。もし侵攻に無駄な時間を費やしてしまうと、西魏王に防衛の策を考える時間を与えることとなる。
(そうなれば、西魏王は漢と敵対するために趙王・斉王と合従する道を選ぶに違いない。魏・趙・斉が集まって漢に敵対すれば、もはや征伐どころではなくなる。)
やがて、項王は戻ってくる。
項王と漢との戦いに今また別の敵が加われば、大陸は大混乱に陥ることとなるだろう。
韓信は、思案した。
「― お前はどう思うか、阿哥(にいちゃん)?」
漢王の声が、韓信の耳に届いた。
しかし、韓信は目を閉じたままで、答えなかった。
「― どう思うかと、聞いているんだぞ。寝ているのか!」
また、声が耳に届いた。
韓信の思案には、いまだ正答が出なかった。
(兵を出してから、考えるか、、、)
それが、彼の結論であった。
「おい!」
漢王の罵声が、炸裂した。
それと同時に、韓信は目を開いた。
彼は、言った。
「私に、一月の時間を与えてください。私が行って、西魏王を平定いたします。」
一月。
韓信は、時間を切って漢王に申し出た。
これが、西魏王に関わることができる最大限の時間であった。これ以上長引けば、漢の勝利も天下の安定も遠くに逃げ去ってしまう。
韓信は、立ち上がって言った。
「すでに諸国は疲弊して、民は長引く戦に耐えられません。項王は遠からず九江王を平らげるゆえに、漢の背後を速やかに攻略しなければなりません。この韓信が、西魏王の平定を一月で終わらせます。」
漢王は、喜びもせずに言った。
「ふん。大きく出たな。」
韓信は、言った。
「この私を信任するか、否か。それは、大王が決めることです。」
漢王は、韓信を凝視した。
彼は、他の諸将ではおそらく失敗するだろうと、感じていた。
戦を越えた政治を見ているのは、きっとこの韓信だけであった。
漢王は、懐をまさぐった。
懐から出したのは、虎の形に彫った青銅の錘(おもり)であった。
「行け。お前は、諸国を討て―」
漢王は、虎の錘を縛る、紐をほどいた。
錘は、中央で二つに割れた。
漢王は、その片方を掴んだ。
「俺は、ここであの子と戦い抜いてくれよう。俺の漢王国で、戦える男は、この俺と―」
漢王は、虎の片方を韓信にびゅん!と投げつけた。
「お前だけだ。俺とお前で、漢は勝利する!」
漢王が投げた虎の半身は、韓信の掌中でぱしん!と音を立てて収まった。
それは、虎符(こふ)の片方であった。
軍の指揮の全権を君主から与えられた証拠として、将軍が持つ。片方は、君主の手元に。もう片方は、戦を指揮する将軍の手元に。君主の持つ絶対的な暴力の半分を、韓信は割り与えられたのであった。
韓信は、手に持った虎符を深く握り締めて、漢王に拝礼した。
「ご信任に、必ず応えましょう、、、天下安寧の、ために。」
韓信の作戦が、始まった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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