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三 伝説の始まり(2)

(カテゴリ:背水の章

韓信は、関中に入って左丞相に任じられた。兵権と共に、自らの計画で物資を動員する権限が漢王より与えられたのであった。

漢王のもとから、曹参が派遣されて来た。
曹参は、櫟陽(やくよう)の陣営で韓信に謁見した。
「― それがしは仮左丞相として、左丞相と共に西魏王攻略を受け持ちます。」
韓信は、喜んだ。
「あなたが兵を率いてくれるのは、ありがたい。この戦は、速戦速決でなければならない。無駄な動員はせずに、精鋭をもって当ることとしたい。」
曹参は、聞いた。
「さて。どのように、西魏王を攻められるのか?」
韓信は、言った。
「よろしい―」
彼は、諸将の前に地図を広げた。
西魏王の占める河水(黄河)の向こうの地は、河東(かとう)と呼ばれる。現代の行政区分では、山西省が相当する。はるかいにしえの時代に、堯帝が都した土地である。春秋時代の雄国である晋や、戦国時代の魏王国もまた、この地から勃興した。ゆえに、河東は覇業を始めるべき地であるともいえるだろう。
韓信は、言った。
「河東の地は、山を抉(えぐ)って川が下り、川に沿って城市が連なっている。このような地勢ゆえに、侵攻した敵は兵を広く進める余地が乏しい。私が速戦でなければならぬと言う理由は、西魏王に山深く逃げ込ませないためだ。」
韓信の作った地図は、じつに詳細なものであった。
川を渡ることができる地点は、こことここだ。ここは、容易に渡ることができる。だがそれゆえに、敵は備えているであろう。もう一つの地点は川幅が広く、一挙に渡ることができない。諸将は地形をよく頭に入れた上で、敵の動向を観察して敵の裏をかくように、渡河を実行せよ。
敵将が籠城できる城市は、ここだ。もし敵が一戦して不利であるならば、背後の城市に逃げ込もうとするであろう。そこで、先手を打ってこの城市を奪ってしまうのだ。そうすれば敵は籠城することができず、野戦するしかない。敵の逃げ道を封じた我らが、必ず優位に立つことができる。
「西魏王は、家族をこの平陽(へいよう)に置いている。」
韓信は、地図を指差した。
曹参は、疑った。
「確かな、ことですか?」
韓信は、答えた。
「すでに調査したことで、間違いない。ゆえに、西魏王の息の根を止めるには、この平陽もまた取らなければならない。そうでなければ、たとえ王を捕らえても平陽で一族の者が代わって即位するだろう。そうなれば、漢は泥沼の抵抗戦に引きずり込まれることになる。曹参― あなたは河東に入ったならば、本軍で西魏王を追い詰めると同時に、別に一隊を平陽に急ぎ派遣して王の家族を捕らえよ。できるな?」
韓信の問いに、曹参は躊躇せず答えた。
「できぬはずが、ない。それがしは、これまで諸国を駆け回って幾多の困難な戦を乗り越えて来た。これぐらいの作戦を、配下を叱咤してできぬようでは、それがしは漢王の股肱とは言えない。」
漢のためにいくつもの勝利を重ねて来た、曹参の静かな自信であった。
韓信は、曹参の浮つかぬ自信の程を、喜んだ。
さらに韓信は、すらすらと作戦の要諦を述べていった。
彼があまりにも自然に語るために、諸将はひとつのことを忘れてしまった。
これほどの戦の用意を事前にできる将などは、どこにもいない。
韓信の説明は、尋常ではなかった。尋常ではないほどに、彼は短期間で情報を収集して、それを細かく分析判断していた。そうしてその判断を、最も分かりやすく諸将に開陳した。それが自然体に感じるまで周到であるために、諸将は韓信がいま尋常ならざる仕事を皆の前で披露していることに、思いが至らなかった。
「臨晋に、総軍を結集せよ―」
韓信は、地図の上の一点を叩いた。
臨晋の向こうには、河関という渡河点がある。
「ここから、渡る。」
韓信は、言った。
曹参の表情が、厳しくなった。
曹参の横には、灌嬰がいた。彼もまた、今回の作戦の一員として参加を命じられていた。
灌嬰は、言った。
「それは、、、難しい。」
韓信は、灌嬰に聞いた。
「君が難しいと言う理由は、何か?」
灌嬰は、答えた。
「河関は、河東への正面からの入り口ではないですか。対岸で、西魏王がござんなれと待ち構えているに決まっている。大河を渡るのは最も危険な作戦であることは、左丞相ならばお分かりにならないはずは、ないでしょう?」
韓信は、言った。
「だが、勝つためにはここから通る以外の道はない。灌嬰、、、君は、命を惜しむか?」
灌嬰は、むかりとした。
「戦となれば命を賭すのは、軍に生きる者として当たり前のことだ!、、、命令とあれば、百万本の矢が飛んでこようと渡り切ってみせる!」
灌嬰は、最近指揮官としてめきめき頭角を表していた。各地で奮戦して功を挙げ、漢王からも大いに賞されていた。それで、韓信への対抗心を隠すことができなかった。韓信の兵法など、いまだに評価する気になれなかった。もし兵法が本当に百発百中であるならば、どうして彭城での大敗があっただろうか?
韓信は、莞爾(にこり)として灌嬰に言った。
「よし。その意気があってこそ、漢軍は勝てるだろう。」
韓信は、曹参に言った。
「すでに、渡河の船は手配されている。全軍臨晋に進み、私の指示を待て。」
作戦は、下達された。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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