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四 罌缶(おうふ)の計(1)

(カテゴリ:背水の章

陣営の動きは、一挙に慌しくなった。

韓信の本陣にも、ひっきりなしに連絡やら報告やらで将兵が出入りした。
「― 左丞相は、どこか!」
灌嬰がやって来て、本陣を守る門衛を叱り付けた。
戦は、間近に迫っている。
また、確実に誰かの上に死が訪れるのである。
これから戦場に赴こうとする者どもが、殺気と活気をないまぜにしながら血を騒がせるのは、当然のなりゆきであった。
叱り付けられた門衛は、答えた。
「左丞相は、、、外出いたしました。」
灌嬰は、目を吊り上げた。
「出陣前だぞ!、、、どうして、外をほっつき歩く余裕があるのか!」
殺されそうな気配に震えて、哀れな門衛はだが指揮官の行方について、何も知らされていなかった。
その頃韓信は、忙殺される合間を縫って櫟陽城の一角に足を運んでいた。
そこは、工人の居住区であった。
戦国時代、櫟陽ぐらいの大きな城市には、たいていこのような工業地区が形作られていた。
ある家では、土を焼いて陶器を作っている。
別の家では、木を削って車輪を組んでいる。
鉄や銅を作る集団は、国家の運営の根幹であった。彼らがいなくては、農民に貸し与える鋤の刃先も鍛えることができず、兵卒に持たせる剣と干戈も揃えることができないだろう。
竹を切って矢を作る者もいれば、はたまた甲(よろい)に漆を塗る者もいる。この地区に集まるこれら工人たちは、彼らの技をもって諸侯と人民の要求に黙々と応え続けているのであった。だが彼らの大きな役割に比べて、世の評価はほとんど聞こえないがほどに小さく、諸侯どもは彼らをまるで朝の菌(きのこ)のごとく自然に城市に生えて来て刈り取るべき存在であるかのごとく、軽んじていた。
陶器師の工房の前には、仕上げた焼き物が列をなして並べられていた。その中に、大人二、三人がかりでやっと抱えられるほどに大きな罌(かめ)があった。
横に立っている男が、もう一人の若者に何やら説明していた。
「― この罌を、口だけ地上に出して地面に埋め込み、空いた口に布を張り付ける。布に、静かに耳を当てる。すると、罌の中を通じて地中の音が集まって来るのだ。地下から穴を掘って城内に侵入する者がいても、音を集めることによって察知することができる。これを、備穴(びけつ)の術と言う。」
固く焼き締まった罌を音を立てて叩きながら説明しているのは、鄧陵子であった。
「なるほど。そうやって、目に見えない地面の下の動きを知るわけだ。」
面白そうに聞いているは、小楽であった。
鄧陵子は、言った。
「遠くの彼方の動きを知るためには、丘に登って見下ろせばよい。地下の動きを知るためには、このように音で聞き分ければよい。城内の動きを知るためには、間諜を使って探ればよいのだ。では、小楽。考えてみよ、未来の動きを知るためには―?」
小楽は、首をひねった。
小考した後、ぽんと手を叩いた。
「― 智恵を使うと、いうわけですか?」
鄧陵子は、喜んだ。
「そうだ。たとえば塩や銅鉄の値段ならば、そこには必ず上がり下がりの潮目がある。今の値段が騰落のどの辺りに差し掛かっているのかを見抜くことができれば、商売に不都合はない。また、毎年の天候には順不順の波があって、富歳と凶歳は常に巡って繰り返す。その天の理(ことわり)を知らなければ、豊作の歳に食いつぶしてしまって、やがて必ず起こる凶作の歳に餓えることになるだろう。ゆえに智恵ある者は、豊作の歳にすすんで蓄えて置くのだ。智恵があれば、未来に何が起こりうるかを前もって考えることができる。計慮をめぐらせば、生きるための強い力を与えてくれるのだ。」
小楽は、大いに喜んだ。
「鄧陵子は、大した智者だ。きっと、これまで生きておられて、ずいぶんと成功したのでしょうね?」
鄧陵子は、苦笑いした。
「なんの、なんの―」
彼のこれまでの人生の実際は、教団の掟に盲目的に従って、自らを縛り主義に尽すばかりで過ごして来た。教団から離れて、敗残し、死ぬべきところを生き永らえた自分は、成功者どころの話ではなかった。だが努力して何も実ることなかった歳月を経て、この年になって何となく自分の心を広く持てるような気分となったようであった。かつて墨家の徒であった彼は、己を捨てて他人と天下のために働くべしと教えられた。墨家の徒にとって自分を重んじることは敵であって、理想のために今を苦しみ続けることが友とみなすべきものであった。その自分が、青年に智恵を使って生きるべしなどと言っている。鄧陵子は、自分の変節にむずがゆい思いがした。だが、昔の自分に比べて心を痛ませることは、もはや起らなかった。昔に比べて堕落したのかも、しれない。だが、そうとばかりも言い切れないと、感じていた。
二人の前に、韓信が現れた。
「― 鄧陵子。こんな大きなやつは、必要ないぞ。運ぶのに、苦労するだけだ。」
韓信は、鄧陵子たちが語っていた大きな罌を見て、不満にした。
彼は、両手で大きさを形作りながら、言った。
「もっと小さな罌缶(おうふ)が、必要なのだ。それを、うんと多く用いて、、、」
鄧陵子は、韓信に笑って返した。
「ははは。これは、原型を工匠たちに見せるために、試しに焼いたものですよ。工匠たちを集めてこの原型を観察させただけで、彼らは直ちに作業に取り掛かりました。奥に、実物がありますよ。」
韓信は、工房の裏手に回った。
「おお、、、さすがは、工匠たちの技だ!」
そこには、原型をもっと小さくした罌缶が、山となって積み上げられていた。
彼が一月前に指示した通りのものが、今や不足もなく仕上がっていた。
鄧陵子は、言った。
「仰せのとおり、夜のうちに運ばせます― しかし、うまく行くでしょうか?」
韓信は、微笑んだ。
「曹参たちの軍は、すっかり闘志を燃やして渡河に取り掛かろうとしている。彼らの鋭気は、敵の目にもこれが本軍だと思わせるぐらいだ。誰も、曹参たちの軍が見せ軍であることに、気付きはしない―」

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章