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四 罌缶(おうふ)の計(2)

(カテゴリ:背水の章

西魏王の征討が、始まった。

漢軍は、臨晋に進出して、河水(黄河)に臨んだ。
この大河が、敵を守る堀である。
見はるかす対岸の遠さは、容易に渡ることができない事実を、将兵に教えていた。
「沛から兵を起こして、早や幾歳か―?」
曹参は、渡河の準備を急ぐ兵馬の隊伍を見下ろしながら、つぶやいた。
「一年、、、二年.もひとつ回って、三年.去年の秋に、漢中を出た。そこから、さらに一年― 都合四年が、経ちました。」
灌嬰が、指を折りながら答えた。
曹参が、言った。
「四年か、、、四年の間、ずっと戦ばかり続けていたな。十年前の自分には、今の境遇がまるで予想も付かなかったよ。反秦の乱さえ起らなければ、私は沛で片々たる一属吏として、生涯を終えていたであろうに。」
曹参は、眼前に広がる川面より吹く風に、顔を当てるがままに任せた。もはやその顔は、沛の属吏ごときの小役人には、ふさわしくない。戦に鍛えられた、将軍のそれであった。
灌嬰が、言った。
「これも、大王の驚くべき天運です。あのお方が雲に乗ったゆえに、とうとうここまで来てしまいました。」
兵卒たちの間から、歌が聞こえてきた。

豈曰無衣  着る物がない?、、、気にするな!

與子同袍  俺の袍(うわぎ)を、一緒に着よう

王于興師  大王、いま兵を起こす

脩我戈矛  我ら、手に戈矛(かぼう)を持って

與子同仇  皆で一緒に、仇を討つ



豈曰無衣  穿(は)く物がない?、、、気にするな!

與子同裳  俺の裳(したぎ)を、一緒に穿こう

王于興師  大王、いま兵を起こす

脩我甲兵  我ら、胴に甲兵(よろい)をまとい

與子偕行  皆で一緒に、行き進む

秦風の、歌であった。
漢が本拠とする土地は、旧秦の土地であった。ゆえに、漢軍はすでに秦の子弟により支えられていた。
曹参が、言った。
「― 威勢が、いいな。」
灌嬰が、言った。
「ふん。恐怖を紛らわしているんですよ。奴らは、真っ先に死ぬ運命なのだから。」
灌嬰は、若かった。漢王と共に雲に乗った幸運を、天が自分に微笑みかけてくれたのだと誇らしげに受け止めていた。
彼は、眼下の兵卒たちと自分とは天命が違うのだと、思っていた。四年前はたかが駆け出しの絹商人であった彼が、今や万にのぼる兵卒を自分の指揮次第で燃え盛る火の上を駆け抜けさせることもできれば、弩(いしゆみ)が雨嵐と飛ぶ真ん中に突っ込ませることもできる。これほどの彼らと自分との差は、彼がこれまで持っていた常識ではとうてい計り知ることができなかった。だから、天命だと突き放してしまうことが、灌嬰にとっていちばん楽な解答であった。
曹参が、そのような灌嬰の心を感じて、言った。
「灌嬰、、、兵を、侮るなよ。」
灌嬰は、曹参の忠告に顔をしかめた。
彼は、つまらぬ話から逃げる目的で、別のことに話題を転じた。
「、、、それにしても、左丞相はまたしても、どこに行かれたのか!」
確かにこれは、つまらない話題どころではなかった。
曹参は、灌嬰に言った。
「左丞相は、総軍の指揮だ。個々の作戦にばかり関わり切れないことだって、あるというものだよ。お前も、そのぐらいの事情は理解しなければならないぞ。」
灌嬰は、言った。
「しかし三軍の乱れは、狐疑に生ずると謂うではありませんか、、、左丞相は、何かと行動を秘匿することが多い。それが、勘に触る。どうして、もっと我らに打ち明けぬのか!」
灌嬰がむくれている所に、ちょうどその当人がやって来た。
「― 西魏王は、自ら軍を率いて都の安邑を出たようだ。河関の向こうで、我らを待ち構えるつもりであろう。」
韓信の情報に、曹参と灌嬰は身を引き締めた。
曹参は、言った。
「強行突破、なさるか?」
灌嬰が、後を続けた。
「もう、兵馬を乗船させる用意は整っています。ここまで来たら、進むよりありますまい、、、左丞相の、号令一下です!」
二人の猛将は、韓信の言葉を待った。
だが、韓信は彼らに言った。
「今日は、凶日である、、、攻撃は、明日から行なうべし。」
何とも拍子抜けのする、総指揮官の言葉であった。
灌嬰は、ついに韓信への怒りを隠さず、言った。
「なんと、左丞相ともあろうお方が、占卜を信じるのでありますか!」
彼の剣幕に、韓信は涼しい顔で答えた。
「私は、戦の吉凶を占卜に委ねたりはしない。しかし、戦に陰陽の変転があることは、信じる。今日渡河することは、凶である。しかし明日になれば、全て我が軍の享(とお)るところとなるだろう― 曹参!」
「― はっ!」
呼び掛けられて律儀に返事した曹参に、韓信は命じた。
「渡河の指揮は、全てあなたに一任したい。」
曹参は、不審がった。
「私に、全権を委ねられますか?」
韓信は、言った。
「これまで観察して、分かった。あなたは兵卒の信頼が深く、最もよく統率している。この後の戦で、衆を叱咤して速やかに動かすのに相応しい。明朝より川を渡り、渡り切った後は予定のごとく西魏王を一族もろともひっ捕えるべし!」
そう言って韓信は、にやりと笑った。
曹参は、そのとき勘付いた。
(― 何か、やるつもりなのか、、、)
だが、心に留めて置いた。彼は韓信の思惑を推理する力は到底持ち合わせていなかったが、かと言ってそのことで妬心を起こすには、灌嬰よりもずっと人生の経験が多かった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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