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四 罌缶(おうふ)の計(3)

(カテゴリ:背水の章

漢軍の渡る河関の対岸には、韓信の得た情報のとおり西魏王軍が陣を張っていた。

西魏王豹は、対岸に雑魚のごとく集結する船の群れを眺めて、言った。
「渡るか、、、漢軍めが。」
西魏王は、漢兵を河岸に打ち寄せたそばから水中に叩き落さんと、兵を展開した。
西魏王軍は、静かに敵を待った。
日は巡り、将兵の頭上を高く通り抜けていった。
日が西に傾いても、漢軍は渡河して来る気配を見せなかった。
「はてな、、、夜、渡るか?」
西魏王は、いぶかった。
暦を数えてみれば、確かに今夜は月が出る。夜、兵を動かすことができる。
だが、奇襲ならばいざ知らず、あれほどまでに船を集めて渡る構えを見せている。もはや夜襲の効果は、何ほどもありえない。
西魏王は、後ろに控える配下の将軍たちに聞いた。
「― 河水(黄河)を渡す船頭どもは、漢軍の船がここより他に見当たらないと、真に申しているのであろうな?」
孫遬(そんそく)将軍が、答えた。
「確かに、そう申しております。」
西魏王は、問いを重ねた。
「本当に、信用できるのであろうな?」
孫遬将軍は、言った。
「彼奴(きゃつ)らは、狡猾です。戦の勝敗いずれとも分からぬ時には、後で勝者に復讐されることを恐れて、かえって正直に申告するのです。この川に浮かぶ船について知り尽くしている彼奴らの言うこと、過ちはないと考えられます。」
王襄将軍もまた、言った。
「我らも、敵の対岸での動きにはこれまで厳しい監視を置いて来ました。それがしの手の者が、河岸の各点を監視しております。確かに、他の地点で漢軍が渡河する予兆を見ることは、できませんでした。ただ―」
「ただ?」
西魏王の問いに、将軍は答えた。
「監視の兵から、このようなものが流れ着いて来たと、報告を受けました。」
そう言って、手に小さな器を取り出した。
西魏王は、器を見て首を傾げた。
「― 木罌缶(もくおうふ。木製のかめ)では、ないか?」
それは、片手で持てるほどの、軽い木彫りの器であった。
王襄将軍は、言った。
「監視の兵が、この木罌缶を数点河岸にて拾い上げたとの、報告がありました。」
西魏王は、眉をひそめた。
「これが、何だというのか―?」
将軍は、答えに困った。
「それがしには、分かりません。」
西魏王は、言った。
「将軍ともあろう者が、己で分からぬことを主君に上げるでないわ!こんな腰に提げるような木罌缶ごときが流れ着いたところで、戦況に変わりがあるか!、、、見よ、敵はいつ行動を始めるかも分からぬのだ。無駄な情報に、気を取られている場合かっ!」
王襄将軍は、西魏王から叱り付けられて、恐縮した。
こうして西魏王や将軍たちは、河関から漢軍が渡るという大状況が間違いないと、判断した。


夜が、来た。
河関から数里上流にある川辺に、韓信は立っていた。
「ここだ― この地点から下れば、対岸に流れ着く。」
川の流れには、川を知っている者にしか分からぬ通り道がある。
川に生きる船頭たちは、流れに逆らうことなく、櫂を流れに乗せて船を対岸へと運ぶ。
韓信は、船頭たちに対岸へ渡る川の道を、聞き取った。
しかし、彼らに船を頼むことはしなかった。全てを教えれば、彼らはきっと敵にも伝えるだろう。それが、民の処世術というものであった。
「我が動きは、その無備を攻め、その不意に出る。敵は、いまだ我がなすべきことを知らない― さあ、総仕上げだ!」
韓信は、ひそかに本軍から分けて進ませた部隊に、準備を命じた。
すでに、秘匿して運ばせていた木罌缶が、岸辺にずらりと並べられていた。
鄧陵子が、兵卒たちに指示を出した。
「指定のとおりに、組み上げろ。焦らず、しっかりと結わえることに、気を配れ。」
用意した綱で、木罌缶を繋ぎ上げていく。しっかりと繋げる形状に鄧陵子が設計した、特製の木罌缶であった。
小脇に抱えられる程の大きさの器を、縦に繋ぎ、横に組み上げる。
兵卒たちが指示された通りに繋いでいけば、やがて一艘の船(チュアン)の形に仕上がっていった。
韓信は、言った。
「まさか、このような方法で船を造るとは、敵は思わなかったであろう。誰が、木罌缶を見て船を想像できるだろうか?」
鄧陵子は、彼の着想を讃えた。
「しかし、船というものが、だいたいは器を繋いで組み立てられているのです。だから木罌缶を連ねれば、船となる道理!」
韓信は、莞爾(にこり)とした。
岸辺の各点で、次々に船の形が現れていった。わずかの間に、千艘もの船が岸辺に造り出された。
韓信は、号令した。
「― 総員。分乗して、一気に流れを下れ!」
罌缶の計が、発動された。
号令一下、兵卒たちは木罌缶の船を川に滑り出させ、連ねて進んでいった。
「虚を、衝(つ)けるか!、、、虚を、衝(つ)けるか!」
韓信は、月夜の下で波を上げて進む船の上で、つぶやいた。もし虚を衝けば、進む者は禦(ふせ)ぐことあたわず。それが兵法の、至上であった。韓信は、自分の企画が完璧であることを、兵たちと共に進みながら祈った。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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