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四 罌缶(おうふ)の計(4)

(カテゴリ:背水の章

夜は明けて、河水(黄河)の水は晨(あした)の空を映し始めた。

大河の上には数え切れないほどの小波がゆらめき、それぞれの頂点が調子を揃えて不思議な色合いで鈍く光った。遠くから、一匹の羊の声が聞こえて来た。民は夜が明けると共に羊を追い、畑に出て麦を蒔く。この大河のほとりでは、数千年も前から変わらない生活であった。明け染めるこの風景は、まるでこのまま悠久に続いて時間など忘れているかのようであった。
だが、ごく一部の人間たちにとって、これから始まる一日は一刻一刻が生死を分ける瞬間であった。河水の左岸では、夜明けを期して続々と将兵たちが船に乗り込んでいった。
左岸から渡るのは、漢軍。
総兵の指揮は、仮左丞相曹参が執った。中大夫灌嬰が、彼を補佐した。
手堅い統率力で兵馬を進ませた両者は、水を切って対岸に向けて進んでいった。
今日は、血に餓えた日となるであろう。
右岸には、西魏王の軍が待ち構えているはずだ。
戦って勝つのは将として当然の責務であったが、今日は何人の将兵が戦場に倒れるであろうか。
千人?― いや、これまでの経験から言って、それでは済まない。
三千人?― 我に天運あれば、このぐらいであるか。
五千人、一万人すら覚悟しておく必要があった。それが、戦というものであった。曹参と灌嬰は、もう膨大な数に慣れてしまった。沛の城市で慎ましやかに生きていた時代は、一人の死、百銭の金が人生の一大事であった。それが、国家の元老となって国家の力を指揮する今の立場では、一万人の死も百万銭の資金も、少しも多いとは言えなかった。
漢軍の船団は、大河を半ば以上渡った。
いよいよこれから敵との遭遇に、覚悟しなければならない。
敵の対岸から、船を繰り出してきた気配はない。敵は、水上で迎え撃つつもりはないのであろう。
ならば、河岸に逆茂木(さかもぎ)を置いて足を止め、弩兵の矢を浴びせるか。
塞(とりで)を河岸に置いて待ち伏せ、上陸する兵を挟み撃つか。
それとも、あえて河岸に上陸させた後で、丘の陰から巨石を転がし落とすか。
曹参たちは、あらゆる敵の出方を想定した。敵と会えば、斬って進むつもりであった。敵が籠(こも)れば、踏み潰す覚悟であった。
ついに漢軍の先頭が、右岸にたどり着いた。
それから漢軍は、各所から続々と上陸を始めた。
とうとう全ての軍が、上陸を終えてしまった。
まだ、日は西に傾く前の時刻であった。
しかし― 敵軍は、いなかった。
「これは、どうしたことか、、、?」
曹参たちは、対岸から全く抵抗を受けずに渡河してしまったことに、戸惑った。
対岸に陣を張っていたはずの西魏王は、どこにも見ることができなかった。
河岸に残されていたのは、撤退した後の残骸であった。
河岸の向こうから、一頭の早馬が駆けて来た。
馬に乗る主は、仮左丞相曹参に言った。
「― 仮左丞相。西魏王は、すでに敗走に移ったぞ!、、、諸将はぐずぐずせず、予定の進路を取るがよい。西魏王を捕らえるのは、もはや袋から玉を掴み出すほどに易いことであるぞ!」
馬を飛ばして来たのは、鄧陵子であった。
鄧陵子が告げたことは、すでに戦の大勢が定まったという事実であった。
不審に思う曹参たちに対して、鄧陵子は重ねて言った。
「全ては、国士無双の計略のうちよ。韓信は、昨晩のうち密かに河を渡り、敵都安邑を陥とした。西魏王はその報を聞いて狼狽し、考える暇も無く全軍を返したのだ。敵軍は、すでに支離滅裂である。いま西魏王を追って捕らえれば、敵は抵抗することもできぬ。諸将、この時を逃すなよ!」
韓信は、昨晩のうちに木罌缶の船を用いて河を渡り、直ちに安邑に兵を進めた。
安邑は、抵抗することもなく陥ちた。守備の将兵は、事前に敵軍が迫るという連絡を一切受け取っていなかった。そのため、いま都に近づく軍があれば、それは自軍以外にありえなかった。韓信は魏軍が戻って来たかのように見せかけて城門を開かせ、一挙に敵都を奪い取った。
都が陥ちたことは、直ちに前線の西魏王に伝えられた。
西魏王は、予想もしなかった事態に我を失った。
「間違いだ、、、何かの、間違いであろう!」
しかし、事実であった。予想もしなかった不利な事態が突然起ったとき、人は判断力を失う。これまで描いていた全体像は崩れ去り、不安は速やかに恐怖へと変わって行く。西魏王は、漢軍がすでに魏の全土に兵を進めてしてしまったかのように想像して、狼狽した。
「引き返して、安邑を取り戻すのだ!、、、否、前の軍に備えなければならぬ、、、否、否、否!」
上が進退に迷ったとき、軍は乱れる。
誤った判断を乱発して、次々に矛盾した用兵を行ない、やがて軍は溶け去っていく。
最終的な結果は、乱麻のごとき敗走であった。
西魏王は、目の前の漢軍を差し置いて兵を返したのであった。
鄧陵子は、韓信の見事な計略に、感服した。
(もし、両軍が正面から堂々と戦うならば、おそらく十万の死者が出ていたであろう。敵の不意に出ることは容易く勝つ道であり、そして無駄な血を流さぬ道だ。それは、限られた者にしかできない至上の道であるよ―)
その後漢軍は、次々と西魏王の地を平定していった。
西魏王と将軍たちは曹参の軍にことごとく敗れ、西魏王豹は生け捕りにされた。
北に兵を進めて平陽を陥とし、西魏王の家族もまた捕われた。これで、組織的な抵抗は不可能となった。
都合五十二城を収め、西魏王平定は成った。韓信の予告した通り、一月で全てが終わった。
漢は西魏王豹を再び王とせず、彼の土地は漢の河東郡となった。
韓信は、西魏王の身柄を滎陽に送り届けた後、安邑に留まって漢王から指示を待った。
滎陽から、使者が戻って来た。
漢王は、彼の西魏平定の功績を称えた。
その上で、漢王はさらに次の要求を申し付けて来た。
韓信は、使者の言葉を謹んで聞いた。
彼の戦は、いまだ始まったばかりであった。
使者が去った後で、鄧陵子が韓信に近づいて来た。
彼の手には、さきの戦で用いた木罌缶があった。
韓信は、言った。
「そいつに酒を注げば、勇戦した兵卒たちを労(ねぎら)うことも、できるだろう― 残念ながら、戦はまだ終わらないからな。」
鄧陵子は、うなずいた。
「罌缶(かめ)に並々と注いで、兵卒に配りましょう。器は、本来の用途に戻すのがよいのです。」
韓信は、罌缶から一杯すくって、鄧陵子に言った。
「漢王の前で、私は一月で平定すると宣言した。だがそのとき、私はまだ全然策を考えていなかった。それから色々と頭で策を練ってはつぶし、寝ても覚めても思案したが、どうにも進まなかった、、、頭に来て、酒でも飲んでみた。こうして酒入りの罌缶をたぐり寄せて酒をあおったときに、今回の計が思い付いた。今だから言うが、罌缶の計は私の自棄(やけ)酒の産物なのさ。」
韓信は、そう言って杯を飲み干した。
彼は、顔をしかめた。
「― 水じゃないか!」
鄧陵子は、平気な顔をして言った。
「それがしは、墨家です。酒は余計な快楽ゆえに、飲みません。」

          

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第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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