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五 龍虎の本領(1)

(カテゴリ:背水の章

漢王から韓信に下された下命は、以下のごときであった。

― 大王は、自ら項王と対峙することを望まれています。左丞相は、進んで趙の陳餘を討たれよ。
使者の言葉を聞いて、韓信は思った。
(、、、勝負人で、あるな。)
漢王は、これが項王と自分との龍虎の決戦であることを、誰よりも深く知っていた。だから、自分が項王に勝てる目算は一切無いにも関わらず、項王の攻める正面には自分が立たなければならないと、断固思い切った。彼は、身を案じる家臣たちの心配を、一笑に付した。彼は、家臣たちに言った。
「俺は、大王だ。俺が、一番の功績を挙げなければならん。項王だって、そうしてるじゃないか?」
これは、勝負する者の計算であった。どうせ、項王と戦って勝てる者など、誰もいない。勝つという望みを捨てたならば、誰が指揮しても同じことだ。ならば、敵の首領と向かい合う栄誉は、この自分がもらうだけだ。もし自分が楽々と関中に戻ってふんぞり返っていたならば、家臣の誰かが功を挙げてしまう。それは、彼にとって許してはならないことであった。
韓信は、思った。
(漢王は、君主として欲深いことに迷いがない。それが、彼の恐るべき点だ、、、)
韓信が趙攻めを命じられたことも、漢王は彼が自軍で最大の軍略家であることを、認めたからであった。お前は勝てるから、勝利を取れ。俺は勝てないから、栄誉を取る。それが、漢王の韓信に伝えた、言外の言であった。
韓信は、鄧陵子に言った。
「陳餘は、優秀な配下を多く抱えている。西魏王よりも、さらに難しい敵となるであろう、、、お前の力が、また必要となる。」
鄧陵子は、言った。
「天下の平定のためには、もとより我が身を惜しみません。あなたならば、民を苦しませることもなく、地を払うことができるでしょう― だがその先に、あなたは?」
韓信は、彼の言葉に不審した。
「その先の私、とは?」
鄧陵子は、言った。
「あなたは、項王漢王に決して劣ることがありません。そのあなたが勝てば勝つほど、天下にあなたの栄誉が高まっていくのです。」
韓信は、あわてて首を振った。
「それは、買いかぶり過ぎだ!、、、私は、雇われ将軍だよ。」
鄧陵子は、言った。
「やがて、そのように見られることがなくなります。」
韓信は、言った。
「私は、項王や漢王には及ばない― そもそも、人の上に立つ器ではない。」
鄧陵子は、首を振った。
「決して、そうではありませんよ、、、あなたの、意志さえあれば。」
韓信は、改めて否定した。
「ない、ないよ、、、」
鄧陵子は、韓信が人に対しては智者でありながら、自分に対しては無知であると思った。だが、彼はそのような主君をかえって慈しんだ。

さて、滎陽ではいよいよ項王の来襲を覚悟しなければならなかった。
九江王黥布は、戦うこと数月にしてついに項王軍に敗れた。
彼の領地は項王軍に蹂躙され、六の城市は掠められた。黥布の妻子は、宮城で皆殺しとなった。項王の憤りは、かつての盟友に残虐な復讐を与えた。しかし九江王を倒すことによって、最も傷付いたのは盟友を失った項王であった。
「我が道は、私が切り拓く!、、、」
疲れを知らず戦い続ける項王は、もう涙も尽きてしまった。
彼に寄り添う虞美人は、優しい目でうなずいた。
彼女は、これから先は項王と共に戦場に進むことに決めた。今の項王は、真っ暗な道を進んでいた。かつての彼は、身に錦繍を纏(まと)うがごとくに輝いていた。今の彼も、その力と夢はかつてと変わらず輝くべき資格がある。しかし、進んでいる道はすでに真っ暗な闇であった。虞美人は、闇の中で輝くことができないで走る彼を、独りで進ませることはできなかった。
(私たちは、二人で走るんだ、、、それしか、生きられない!)
虞美人は、騅にまたがる項王の腕に抱えられながら、思った。騅は、次の戦場に向けて駆けて行った。
項王の用兵は、常に電撃のごとくである。
九江王を平らげた後、直ちに漢王を討つために兵を進めた。
彼の進むところに敵はなく、しかし彼以外に誰も恃む者はなく、猛虎は独りで敵に立ち向かうより道はなかった。
その猛虎の項王に対峙すべきは、漢王劉邦。自称、蛟龍赤帝の子。
彼は、意外にも快活そのものであった。
漢王は、上機嫌で食事を取っていた。
三人の若い妾(はしため)が、王の食事に給仕していた。
この妾たちは、西魏王の後宮に仕えていた女たちであった。西魏王が捕われて滎陽に護送されて来たときに、付き添って送られた。
漢王は、戦利品として手に入れた宮女たちに給仕させて酒食をほおばり、戦中のしばしの歓びを味わっていた。
漢王は、満面喜色で二人の娘に声を掛けた。
「― 管氏と、趙氏だったな。お前たち、なかなかに気が利いているぞ。」
二人は、大王に誉められてきゃいきゃいと笑った。彼女たちにとっては、仕える主人が変わろうが、どうだってよいことであった。権力のより大きな主人に拾われて、より寵愛を受けた方が人生の勝利者であった。男が好色の目でしか女を見ないならば、女は富貴の目でしか男を見ない。それで、おあいこであった。女に幻想を持つ男は、女に言わせれば愚かというよりも傲慢と言うべきであった。
漢王は、もう一人の妾にも声を掛けた。
「お前は、大人しいな、、、この姦(かしま)しい娘たちとは、ちょっと違う。」
娘の姓は、薄氏と言った。
薄氏は、叱られたと思ったか、黙って俯(うつむ)いてしまった。
管氏と趙氏は、口をとがらせて言った。
「この娘は、私たちとの間では一緒になって騒がしいんですよ!、、、」
薄氏は、まだ若すぎて男慣れしていなかった。それで、人前に出るとぎこちない風であった。だが彼女の同僚たちは、それを男に媚びて作った姿勢であると、警戒した。早くも、主君を巡った陰惨な心理戦が、始まっていた。
漢王は、若い女たちの心を読んで、せせら笑った。
「いがみ合うと、幸してやらんぞ!、、、そら、もう食い終わった。これから軍議だ、妾どものあずかり知らぬ世界よ。うははははは!」
三人は、とりあえず漢王の後宮に入れられた。戦の中でも、生活の欲は少しも衰えさせないのが、漢王であった。
後宮に入れられた三人の妾のうち、薄氏はやがて漢王の男子を産む。男子は代王に封じられ、時を経た後に漢の大統を継ぐ運命を割り振られる。薄氏は薄太后に昇り、男子は孝文帝に即位して、以降の漢王朝の血脈を支配するのである。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章