«« ”五 龍虎の本領(1)” | メインページ | ”六 虚実の攻防(1) ”»»


五 龍虎の本領(2)

(カテゴリ:背水の章

河水(黄河)中流の地域は、古来より中州(ちゅうしゅう)または中原(ちゅうげん)と呼ばれている。

「中原に、鹿(ろく)を逐(お)う。」
という言葉がある。天下の覇権を望んで、群雄が相争う樣を表す。中華の大文明は、いにしえの時代にこの中原から光を発した。周の武王と周公は、天下を平定した後に中原の洛陽に新たな都を築き、ここを諸国入貢の地に定めて九鼎を安置した。周公は、言った。
― ここは、天下の中なり。
彼らは、知っていた。中原を押さえる者が、中華を押さえる資格がある。中原は、天下の通路である。ここで峻厳な秦嶺の山脈は尽きて、入れ替わりに華北の大平原が広がっていく。その間を何本もの大河が過ぎり、河川を上る者も下る者もここを通らざるをえない。かくのごとき四通八達の土地であったから、覇を望む者は必ず奪わずにはいられない。そして進んで取れば、天下四方を睥睨するに足る。
武王・周公の時代から、下ること九百年。鹿を逐う野望をたぎらせる者どもの争いは、いつしか中原に引き寄せられていった。それは巨視的に見れば、中華文明の固有の法則とでも言うべき運動であった。天下を二分する項王と漢王の死闘は、中原に戦場を移す。
両者の攻防は、滎陽の城市に集中した。
項王は、無敵の江東兵を率いて、猛烈に城市を攻め立てた。
守る漢王は、動かなかった。
敖倉(ごうそう)から引き込まれている甬道(ようどう)が、長期の籠城を可能としていた。挑発に乗って戦えば、項王に必ず敗れる。十中八九どころか、十万回戦って一回ですら勝てる望みはなかった。だから、漢王はこの要塞で動かず、ひたすら時を待った。天下は、やがてことごとく項王を敵となすだろう。今は戦って彼に武勇を為さしめるよりは、可能な限り時間を引き延ばして彼が孤立するのを待つのに、如くはない。
やがて、戦いは甬道の攻防に移っていった。
項王の兵卒は、甬道に食らい付いて削り取り、掘り崩した。
甬道は、韓信が鄧陵子と共に設計したものであった。
いくら項王の兵卒たちが苦心して取り付いても、甬道はびくともしなかった。道を遮る壁は工匠の粋を集めた板築の工法で作られていた。きめの細かな黄土の粘土を均等な重圧で搗(つ)き固め、水を抜いた壁は焼き締めたように硬くなった。刃を通すと刃先がこぼれ、槌で叩くとかえって兵卒の腕骨が折れた。ようやく苦心して一枚の壁を削り取れば、その後ろにまた壁が現れた。何日取り付いても、甬道は崩れることがなかった。
楚の背後では、彭越の盗賊軍が出没し始めた。
彭越は、無防備な補給の部隊を襲うことを好んだ。
項王軍に食を届けるために、民が徴発されて糧米を運んだ。多くは、兵の役にも立たない幼少の者と老人たちであった。
彭越は、ほくそ笑んだ。
「― 討ってくださいと、言うべきものよ。楽な戦だ。」
彭越は待ち伏せ、不意に襲い、彼らから全てを奪い取った。
敵の兵馬が駆け付けると、盗賊軍は風のように去った後であった。捕吏から逃げる素早さは、かつて湖賊として鳴らした者どもにとって、職業上の技術であった。
前線の兵に、ついに食は届かなかった。
軍にたどり着いたのは、空しい手に何も持たぬ徴発の民ばかりであった。
陣営の前に、民々は畏れて平伏した。
亜父范増が、現れた。
彼は、民の群れを一瞥した。
いずれも、兵に就けぬ者ばかりであった。
老婦に老父がその半分で、残りは幼い小児に女児であった。
亜父は、彼らに申し渡した。
「― お主らとて、大王のために働けぬわけではない。追って、役目を割り振るであろう。」
そう言って、再び前線の指揮に戻っていった。
その日の、夕暮れ。
兵卒たちに、羹(あつもの)が支給された。
「二杯は、許さんぞ。すでに大王ですら、二杯は召し上がられぬのだ、、、!」
食を求めて殺気立つ兵卒たちの前で、配膳の軍吏が繰り返し怒鳴った。
食糧の欠乏した軍中では、すでにその日倒れた死馬の肉すら支給されるようになっていた。今夜の羹にも、兵卒が働ける最小限の肉が、盛り付けられていた。
兵卒たちは、肉汁を貪るようにすすり上げた。
騒がしい、兵営の食事であった。
だが、今夜の食事は、次第に声が低くなり始めた。
「これは、、、!」
肉の味は、食べなれた馬肉のそれではなかった。
兵営のいたるところで、ひそひそと囁き声が始まった。
亜父の陣に、事情を察知した呂馬童が、飛び込んで来た。
呂馬童は、震える声で亜父を罵った。
「なんということを、命じたのであるか、、、亜父、貴公は人非人か!」
呂馬童から睨みつけられても、亜父は眉一つ動かさなかった。
彼は、静かな口調で言った。
「戦とは、あらゆる手段を用いなければならない、非常の場なのだ。糧食が奪われた今、他のどこに兵卒のための食を求めればよいのか?」
亜父の表情は、全ての善悪を捨てて、勝利に凝り固まっていた。
(― 私は、間もなく死ぬ。)
彼は、すでに予感を持っていた。しかし自分の命が尽きる予感を持ちながらも、死後の名声も悪名も、今の彼にはどうでもよいことに思えた。
(今は、我が大王に勝たせてやりたい。あの子は、おそらく最後に亡びるであろう。だが、あの子は間違いなく千年に一度も現れない英雄だ。力尽きるまで、戦わせてやりたい。あの子が戦い続けるために、この私は全てを尽くし、尽して死ぬのだ。)
呂馬童は、苦悩の声を挙げた。
「こんな戦を、続ける意味があるのですか!、、、亜父、大王に申してください!撤退しましょう、撤退しましょう!」
だが、亜父は首を左右に振った。
彼は、言った。
「ここで漢王に勝たなければ、大王の敗北は決まってしまう。漢王の首を刎ねなければ、天下の諸侯は従わぬ。覇王項羽の進む道は、民を犠牲にしてまでも目の前の漢王を討ち亡ぼすこと。それ以外に、ないのだ!」
亜父は、民の命を食らってまでも、滎陽の要塞を突き崩すつもりであった。踏み止まりさえすれば、項王は必ず勝ってくれるはずだと、信じていた。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章