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六 虚実の攻防(1)

(カテゴリ:背水の章

一人の群雄が、滎陽を守る漢王のもとに落ち延びて来た。

九江王、黥布。膂力千人力の、猛将であった。
彼は項王と戦って敗れ、都を陥とされて妻子を皆殺しにされた。敗残の身を漢に導いたのは、かつて使者として身を寄せた随何であった。随何は、黥布に言った。
「― 大王ほどのお方が、このまま朽ち果ててはなりません。どうか、漢に御身を帰属なされよ。漢王は、大王を心からお待ち申し上げしております、、、」
黥布は、是非もなかった。
彼は、随何に言った。
「余は、項王を倒さなくてはならない。項王を倒すことができるのは、天下に漢王だけであろう。お主の、申すとおりにする。」
こうして、二人は漢王の援助を乞うために、微(ひそ)かに赴いて謁見を願い出たのであった。
黥布が訪れるという報を聞いて、陳平が漢王のもとにやって来た。
陳平は、言った。
「それがしが見るに、黥布は当世一流の人物です。決して、侮ることができません。」
漢王は、彼の言葉にうなずいた。
「当たり前だ。奴は死線を幾度となく越えた、壮士であるよ。」
だが、陳平は続けた。
「― ゆえに、大王は彼を侮るべきです。」
漢王は、陳平のなぞなぞに、鼻白んだ。
「侮れないから、侮るべきだと?、、、書生、妙な理屈を言うな!」
漢王に罵られても構わず、陳平は拝礼して、主君に問うた。
「大王。あなたが、あなたより強い者に言葉優しく礼を尽して迎えられたならば、相手の意図をどのように勘繰られますか?―」
漢王は、答えた。
「それは、任侠の世界でよくある罠だ。大人(たいじん)は、壮士を死地に赴かせるために、腰を低くして招き欲しい物を何でも与えてやるのさ。壮士がひとたび大人の礼を受けたならば、損得を抜きにして命を投げ出さなければ筋が通らない。呉の専諸、韓の聶政(じょうせい)、燕の荊軻、、、世に聞こえた壮士たちは、そうやって主君から礼を尽されて、主君の刺客として命を投げ出した。だから、賢い奴は大人が腰を低くして近づいて来たら、かえって警戒するのさ。」
陳平は、にやりとして漢王に言った。
「黥布は、義を重んずる壮士です。その上、大王のごとく智恵もあります。その人物を、大王が腰を低くして迎え入れたならば、、、?」
漢王は、ようやく陳平のなぞなぞが解け始めた。
「そうか。奴は、かえって俺に対して警戒する。いったん恩を着せられて臣下となったならば、いずれ使い捨てにするつもりだと勘繰る。それで―」
陳平は、うなずいた。
「大王は謁見の際に彼を侮り、誠意無き素振りを見せるのです。そうして、礼儀ではなく実利を持って彼と盟約を結ぶのです。大王は、黥布に再び広大な領地を与えて、彼に王位を与えたまえ。黥布は、大王と自分が対等の取引であると踏んだならば、すすんで我らに味方することでしょう、、、会見後のことは、この臣にお任せくださいませ。」
漢王は、小気味良く笑いながら、陳平の策を容れた。
陳平は、黙して漢王に拝礼した。
彼は、心中でつぶやいた。
(― どうせ天下が平らいだ後には、殺すのだけれどな、、、)


こうして、漢は黥布の帰順を受け入れることになった。
黥布が随何に伴われて滎陽にやって来たとき、彼の初日は怒りと屈辱に襲われた。
彼が、漢王に謁見させられた場所は、なんと後宮であった。
「英布か、、、なかなか、強い奴だと聞いたぞ。」
漢王は、軽い口調で黥布に応対した。
黥布の前に現れた漢王は、寝衣のままで床机(しょうぎ)にだらけて寄り掛っていた。侮るにも、ほどがあった。
彼の周囲には、三人の妾が恭しく侍っていた。
薄氏が、漢王の足を細い指で丁寧に洗った。
「ひゃははは、くすぐったいぞぉ!」
漢王は、妾たちの愛撫を受けて、痴態に悶えた。
黥布は、無言で立ち尽くしていた。
彼を伴って来た随何は、顔面蒼白となった。
漢王は、不敵な顔をして、黥布に言った。
「― お前ほどの男には、淮南王がふさわしい。淮南に戻って、俺と共に項王を討つがよいぞ、、、分かったか?」
黥布は、漢王にものも言わず、目礼しただけでくるりと後ろを向いて退席した。
後宮から戻って、黥布は随何に言った。
「これほどの屈辱は、初めてだ、、、」
黥布の手は、わなわなと震えていた。
随何は、おろおろしながら黥布に言った。
「な、、、何かの間違いです。漢王の真意を、疑ってはなりません。」
しかし、黥布は静かに言った。
「、、、天下は、漢王と項王より他はなし。だが我は項王と敵対し、今また漢王は我を侮る。天は、我を見放したか。我は、この身を容れる寸土も失ったのであるか。やんぬるかな、、、」
黥布はそう言って、腰の刀に手を当てた。
随何は、あわてて制した。
「は、早まってはいけません、、、大王!」
黥布は、止める随何の言葉も聴かず、今は果てようとした。
そのとき、彼らの後ろから声を掛ける者があった。
「淮南王!― どうぞ、宿舎に戻られませよ。」
後ろに現れたのは、陳平であった。
陳平は、まことに人当りのよい表情を満開にして、淮南王となった黥布に言上した。
「大王をお迎えすべき宿舎の用意が、整っております。どうそ、お越しくださいませ。」
促されて黥布が宿舎に向かうと、そこには王のための格式の接待が、完璧に用意されていた。帳(とばり)、御(従者)、飲、食、ことごとくが、漢王のものと同一であった。
驚く黥布に、陳平が恭しく言上した。
「漢王は、長らく項王と対峙したままです。いま淮南を平らげることができるのは、大王しかできません。漢王が大王に望まれているのは、王と王との同盟なのです。」
黥布は、しばし考えた。
それから、陳平に言った。
「、、、もし漢が淮南を望んだとしても、渡すことはできぬ。淮南は、我が領土だ。それだけは、心得ていただきたい。」
陳平は、にこやかにうなずいた。
「当然で、ございます!」
二人は、互いに拝礼した。
両者の心中には、深い思惑があった。しかし外交は深い思惑を飲み込み、ここに漢と淮南との盟約は成立した。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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