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六 虚実の攻防(2)

(カテゴリ:背水の章

漢と盟約関係に入った黥布は、自領を取り戻すために動き始めた。

項王に亡ぼされた淮南に手の者を送って、残余の衆を集めた。主君を慕う者は、数千人に昇った。黥布はこれに漢から借りた兵を加えて、淮南の奪還に向けて南で作戦を開始することとなった。
漢王は滎陽で対峙し、逸る項王の攻撃をひたすらに避け続ける。背後からは彭越の盗賊軍が楚軍の補給を脅かし、勇将の黥布もまた分かれて敵となった。老獪な持久の策は、思惑通りに漢王をますます有利とした。
項王は、漢王との会戦を望みながら、果たされなかった。彼のあまりの強さが天下万人の知るところとなったために、誰も猛虎と戦う愚を犯さなくなくなった。項王は、自分の強大と栄光によって、復讐され始めていた。
「なぜ、逃げようとした、、、敵は、まだそこにいる。」
項王が、縛り上げられた数人の兵卒を前にして、詰問した。
兵卒たちは、恐怖で舌がもつれて、声を発することもできなかった。
項王は、笑みも怒りもない冷たい表情で、脱走しようとして捕らえられた兵卒たちに、言った。
「全ての者たちが、死をも厭わず踏み止まっている。必勝を期して、私と共にここにいる。それを、お前たちは無にするのか。この私の勝利が、信じられないというのであるか―!」
項王は、剣を抜き放った。
「項王っ!、、、も、申し訳、ございませんでし、、、」
縛られた兵卒の一人が、狂ったように頭を下げ下げ、項王に許しを乞うた。
しかし、その頭の動きは、長く続かなかった。
項王は命乞いに聞く耳を貸さず、一閃した剣が胴と頭を斬り離した。
脱走した兵卒たちは、全て斬となった。
血しぶきで赤く染まった甲(よろい)をそのままに、項王は彼を囲む全ての兵を叱咤した。
「退く者は、斯くのごとし― 心得よ!」
兵卒たちは、無言で彼に拝礼した。
その中にいた呂馬童は、苦い表情を見せまいとして、下を向いたままであった。
(亜父の言う通り、ここで勝たなければ尽きてしまう。しかし、、しかし、いつになったら勝てるのであるか。それに、ここで勝って一体何の意味があるのだろうか、、、?)
呂馬童は、覇王の事業が引き戻せない所に来てしまったことを、感じていた。もう項王には、力の恐怖によって敵を砕く以外に、生き残る術がない。覇王の力は、確かに天下に無敵であった。だが、彼の力は天下を治めることができず、刃向かう敵を蹴散らして殺す以外に用いることができなかった。そして、項王が勝てば勝つほど、敵の数はますます多くなっていった。
項王は、自分の陣営に戻った。
彼は、兵卒たちを遠ざけて一人になった。最近の彼は、こうして一人で思案することが、多くなった。
「私の天は、暗くなるばかりだ。私の地は、どんどん狭くなっていく― 私はこんなことをするために、この世に生を受けたのであろうか、、、于嗟(ああ)!」
彼は、今日も涙を流していた。
苦しさで、耐えられなかった。
彼は、自分は何一つ間違ったことをしていないと心に思っていた。心の赴くがままに進み、心の命ずるがままに愛して憎んだ。彼の心は純粋にすぎて、彼の力は巨大すぎる。ゆえに、人の世は彼を受け入れかねていた。項王は、そのことに苦しんでいた。
彼の背中に、静かな気配が感じられた。
甘く清らかな香りが、項王の鼻をつんと突いた。
「珍しい、香りだ―」
項王は、つぶやいた。
後ろから、虞美人が応えた。
「珍しい、香木だよ―」
そう言った彼女の唇の感触を、項王はやがて舌に感じた。強い香気が、女の唇と鼻腔から流れ込んで来た。
口中の香気の正体は、桂(けい)という南方で取れる木であった。この木の樹皮を乾かせば、高い芳香を放つようになる。桂皮(けいひ。シナモン)と呼ばれる、珍しい香木であった。
虞美人は、唇を離して言った。
「私に― もうこれで十分じゃないのって、言ってほしい?」
彼女は、真剣な目で項王を見つめた。
彼は、答えなかった。
彼女は、言った。
「あなたが言ってほしいのならば、私はあなたに応えるまでだよ。あなたがどこに逃げようとも、私だけはあなたに付いて行くつもりだから。」
項王の彼女に対した表情は、まるで昔の素直な少年時代に戻ったかのようであった。
彼は、口を開いた。
「― このまま進めば、私はこの国の人間全てを、殺し尽さずにはいられない。これは、本当のことだ。」
虞美人は、項王を抱擁した。
「可愛そうな、人!、、、」
項王は、しばし女の胸に、顔を埋めた。
それは、時間が止まるひとときであった。彼の夢は、もうこの瞬間にしか見ることができないのかもしれない。項王は、このとき現実の世界に戻ることを、厭った。
虞美人の声が、遠くからのように彼の耳に響いた。
「この世界に過ぎたあなたにとって、この世界は苦しいばかり、、、」
だが厭わしい思いに浸った後に、やがて屈辱が湧き上がって来た。
項王は、やおら顔を上げた。
「― なぜ、私は逃げなければならないのか、、、!」
虞美人は、ぎょっとした。
彼の表情は一転して、怒りに満ちた表情に化していた。
項王は、吐き捨てるように言った。
「誰も、私を負かすことなどできない!私より弱い者から、お前は逃げろと言うのか、、、虞美人!お前はそんなにも、弱くなったか!」
虞美人は、かっとなって項王に言った。
「そんなつもりで、言ったんじゃないよ!」
項王は、言った。
「私は、間違っていない!私は、絶対に負けはしない!、、、もう言うな。それ以上言うと、お前とて許さぬ!」
項王は、虞美人を乱暴に振りほどいた。
「項羽!」
彼女の声も聞かずに、項王は自軍に戻っていった。この世の人間を殺し尽くしてでも、彼は勝ち進まなければならなかった。それしか、覇王が今この時代に生きている意味を見つけることなど、できなかった。

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章