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十六 より大なるもののために(2)

(カテゴリ:国士無双の章

鄧陵子は、小楽に支えられながら、残る気力で口だけを動かそうとした。

彼は、韓信に言った。
「与えられた時は、多くありません、、、夜が明けるとともに、あなたは軍を動かし、河を渡らなければなりません。斉軍の不意を付く機会は、今夜の結果がいまだ敵に知れ渡らない、今のうちにしかないのです、、、」
横で聞いていた灌嬰は、鄧陵子に返す韓信の言葉を、じっと待った。
韓信は、河を渡り、斉を陥とすつもりなのか。
それは、漢王の詔を踏みにじる行為となる。
灌嬰は、手に持つ刀を、強く握り締めた。
(斬るべきか―)
灌嬰の心が、揺れた。
(斬らざる、べきか、、、いけない!、、、大王への叛意は、断じて許されない!)
彼は、自分の心が揺れてしまったことに、心中蒼くなった。
韓信は、首を横に振った。
「憤りのために進んで、何になるだろう!」
苦しむ彼に向けて、鄧陵子の声が飛んだ。
「韓信!」
鄧陵子は、目をくわっと見開いた。
「― お前は、国士無双だ!私人では、ない!」
驚いたことに、鄧陵子の声は、雷鳴のように振り落とされた。
いったいどこに、これほどの力が残っていたのか。
驚いて目を凝らした韓信に対して、鄧陵子は、言った。
「韓信。お前は、善と力を分けて、考えている。しかし、それは、過ちだ。最も強い者とは、心の善に従って力を使うことが、できる者なのだ。そして心に善ある者は、必ず前に進まずにはおられない。それが、人の心なのだ。お前は、無双の力を持ちながら、どうしてそれを心の善のままに、使おうとせぬのか。どうして、力を持ちながら、何もしないのか!」
鄧陵子は、小楽に支えられながら、上体を起こした。
私を捨てて生きるのは、彼自身が貫いて来た、生き方であった。
そうでなければ、彼は墨家の教団に身を投じたりは、しない。
彼は、この世に理想の社会をもたらす先兵となるために、教団の一員として戦国の世に身命を賭して、働き続けた。
彼の仲間は、もうあらかた死に絶えてしまった。墨家教団は亡び去ろうとしていたが、彼らの理想とした世界は、結局訪れていない。彼らが説いた兼愛の倫理は行き渡らず、世の人間たちはいまだに憎み、私欲をたぎらせ、戦争を正義としている。墨家の徒は力尽きて消え去ろうとしているのに、世の人間たちは、何一つ変わっていない。
鄧陵子は、死を前にして、思う。
(― 我らの生き方は、全てが空しかったのだろうか?)
世の中を変えることを夢見て、理想のために命を賭けて、死に絶えた後に、とうとう何も残らない。
鄧陵子は、思う。
(― 世の中は、変わらなかった。我らは、甘かった。だが、、、)
だが、善の心は、死に絶えはしない。
人が人である限り、この心は残り続けるだろう。
鄧陵子は、自分の生き方を、後悔しなかった。少なくとも、彼は理想のために人を殺し、泣かせるようなことは、して来なかったつもりであった。理想で敵を殺すことができない彼は、何とも甘い。しかし、だからこそ、この目の前で悩んでいる韓信の姿が、いとおしかった。あふれる才があって、しかもそれを私欲に用いたくない心が、彼にはあった。それで、彼はずっと韓信に付き従った。そのことに、何の悔いもない。
鄧陵子は、言った。
「国士無双よ。韓信よ!、、、お前の中の、力に従って進むのだ。お前ならば、過つことは決してない。己を信じて、進むのだ。己を信じれば、お前は己よりももっと大きなもののために、進むことができるだろう。」
彼は、天に語りかけるかのような調子で、怒号した。
「― 進め!国士無双よ、進むのだ、もっと大きなものの、ために!」
鄧陵子は、両の手を広げた。
その直後、彼はがくりとうなだれた。
韓信は駆け寄り、小楽と共に彼に呼び掛けた。
「鄧陵子、、、!」
だが、彼が応ずることは、なかった。
韓信は、鄧陵子の体を抱えて、うずくまった。
しばらく、誰も何も、言葉を発しなかった。
一同の中で、つぶやき始めたのは、韓信であった。
彼は、横で立ち尽くす灌嬰に向けて、言った。
「― 御史大夫。この宿営に、火を掛けよ。」
灌嬰は、彼の命令の意味が、よく分からなかった。
韓信の声は、断固としたものとなった。
「私の宿営から火を出して、斉軍に見せ付けるのだ。真相を知らぬ彼らは、私への襲撃が成功したのかもしれないと、思い込むことであろう。彼らが判断に迷う、それだけでよい。わずかな、隙だ。わずかな隙さえあれば、私はそれを突くことができる。」
灌嬰は、言葉を返そうとした。
だが、韓信の口調は、ますます凛として、強い響きを帯びた。
「すでに、渡河の準備は整っている。右丞相と共に、総軍の将兵を叩き起こせ。明日の夜明けをもって、河を渡る用意をせよ。歴(れき)にいる田間の兵を、急襲して討つ!」
韓信は、ついに進撃の命令を発した。
灌嬰は、韓信の命令に、歯をくいしばって体を震わせた。
彼は、うめく声で、韓信に言った。
「斉を、、、討たれるのか。」
韓信は、答えた。
「斉の敵意は、明らかである。この私は、自衛のために討たなければならない。」
灌嬰は、聞いた。
「斉を討つ理由は、あなたのためか、、、それで、我が軍を動かすのか!」
韓信は、答えた。
「いま、楚軍が斉を討とうとして、進んでいる。楚軍を倒せるのは、この私以外にありえない。私は斉を平らげ、進んで楚を倒す。天下の勢を、私は決めなければならない!」
韓信は、鄧陵子を静かに横たえて、立ち上がった。
彼は、言った。
「もし私が、国士無双と言われるに、値するのならば―」
韓信は、灌嬰の方を向いた。
灌嬰は、一新した彼の気概に、背筋を寒くした。
韓信は、言った。
「私事で、進退を決めることはできない。より力ある者は、より公のために力を用いなければならない。それが、力ある者の責務なのだ。私は― 進む!」
彼の表情には、将の気迫がみなぎっていた。
「右丞相曹参を、呼べ!、、、早く!」
灌嬰は、命じた韓信に対して、何一つ返す言葉を出せなかった。

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章