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十七 遂に渡る(1)

(カテゴリ:国士無双の章

遅い夜明けを待つこともなく、暗い河の流れに鄧陵子の体が、投げ込まれた。

(葬送などは、無用。河にでも、放り投げてください。こんなときに、私が墨家であったのが、思いもかけず役に立ったものだ―)
最後の瞬間、彼は自分の死について、諧謔を見せた。
墨家の主義は、薄葬を旨とする。
この世は、生きている人のためのものである。
死んでしまった体に、生者が気を遣う必要など、一切ない。葬送に費やす時と金があれば、この世を少しでも改善するために使え。それが、墨家の心意気であった。
彼の体を投げ入れた韓信と小楽は、河のほとりで手を合わせた。
韓信は、言った。
「許せ、鄧陵子、、、時は、戦の宝だ。お前の死を、振り切って進まなければならない。」
小楽は、彼の隣にあった。
彼は、韓信に聞いた。
「楚を、討たれるのですか。」
韓信は、答えた。
「楚軍は、江東の騎兵を引き連れて、斉に現れるであろう。彼らの正面からの突破力は、かつて楚兵であったお前もまた、よく知るところだ。お前の知っている者も、その中にいるかもしれない。」
彼は、小楽の方を向いた。
「小楽、、、気が進まぬならば、この先まで私に、付いて来なくともよいぞ。」
小楽は、言った。
「何を、言いますか。私は、あなたに従います。鄧陵子の、分まで。」
彼は、うなずいた。
「そうか。悪いな。」
韓信もまた、彼にうなずいて返した。
彼は、生きなければならない。
生きて、この戦国に決着を付ける。その業は、国士無双韓信にしか、できることではない。
すでに、平原津の漢軍は、動き出していた。
灌嬰は、韓信に命じられたとおりに、兵卒を叩き起こし、急いで軍装を整えさせた。このとき漢軍は、斉からの誘いに応じて、命令さえあればすぐにでも渡河できる態勢を揃えていた。そのために、夜明け前には、すっかり総軍が舟に乗り込む準備を終えることができた。
河のほとりでの埋葬を終えて、韓信が軍中に戻って来た。
副将の曹参と、灌嬰が待っていた。
韓信は、彼らに言った。
「― 対岸に上陸する際に、弩(いしゆみ)など飛ばして攻撃する必要はない。まるで友軍が進むかのように、河を渡るのだ。」
灌嬰は、驚いて韓信に聞いた。
「そんなことで、渡れるのですか?、、、渡河するのに、攻撃しないとは!」
韓信の命令は、灌嬰にとって常識はずれに見えた。
だが韓信は、答えた。
「渡れる。敵の虚を突くことは、弓矢を構え刀剣を振るう武勇よりも、勝利へと近づく道を与えてくれる―」
彼の言葉は、確信に満ちていた。
曹参は、韓信をじっと見据えていた。
彼は、いま渡河を前にして、夜にいきなり呼ばれて命令を下された時と同じことを、もう一度韓信に聞いた。
「― この河を渡ることの重大さを、分かっておられるのでしょうな。」
曹参は、漢王からこの大将を監視するべき旨を、含まされていた。
もし彼に逆心が見えたならば、斬るべしとまで、申し伝えられていた。
曹参は、いま大将の命ずる通りに、軍を動かした。
彼が大将を見る視線は、作業を終えた今、再び厳しかった。
韓信は、彼に答えた。
「分かっている。」
曹参は、また同じことを聞いた。
「大王は、あなたに戻れと命じられた。分かって、おられるのでしょうな。」
韓信は、再び同じことを、答えた。
「今、君命を受けることはできない。斉を除き、楚軍を破らなければ、天下は平定できない。私は、大将としてなすべきことを、為す。」
韓信の言ったことは、反逆とはいえない。楚を破り、天下を平定することは、漢の大目的であった。それで、曹参は彼の命令を斥けることが、できなかった。
だが曹参は、いま渡河を目前にして、また韓信に言わずにはいられなかった。
「我ら二人は、漢将です。漢の利益となることにしか、命に従うことができません。そう、、、もしあなたが、漢に二心あるときには―」
韓信は、彼の言葉を遮った。
「言うな。楚軍は、我が敵だ。揺るぐことは、ない。」
曹参は、もっともっと彼に言葉を重ねて、念を押したかった。
しかし、夜明けは近づいていた。
韓信は、これ以上、時を浪費しようとしなかった。
彼は、諸将に号令した。
「― 総軍、これより河を渡る。無事渡り終えることができたならば、まず斉との戦はほぼ片が付くであろう。」
何とも大胆な、予測であった。
しかし、彼は国士無双である。
彼が言えば、もう大言壮語は、大言でも壮語でもなくなってしまう。それほどに、彼はこれまで奇蹟の勝利を、重ねて来た。
韓信は、凛として声を高めた。
「総軍。万事、我が指揮に従うべし!」
戦を前にして、大将はとてつもない自信を表明した。
曹参も灌嬰も、今は彼の指揮に、体を動かさずにはおられなかった。
韓信は、確かに軍中で人を動かす、将であった。

          

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