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十七 遂に渡る(2)

(カテゴリ:国士無双の章

河水(黄河)を渡る漢軍は、軍に先走ってあらかじめ、対岸に使者を送り付けた。

― 漢将韓信、斉軍の誘いにより、会盟の地に赴く次第なり。ついては、平原津を通過するゆえに、粛粛と迎えられよ。
対岸の守将がこの知らせを受け取ったときには、すでに漢軍が水の上に見えるまでに近づいていた。
軍旗は立てず、弓矢を構えることもなく、ただ将軍の居場所を知らせる旄(ぼう)をまとった将旗だけが、最も先頭を進む一艘の船の上に、ひらひらと翻っていた。
斉の守将は、漢軍のいきなりの来訪に、驚き迷った。
(韓信は、もう来ないのでは、なかったのか、、、?)
守将は、本陣の歴(れき)から伝えられて来たことと、様子が違うと思った。
だが、すでに対岸では、数日前から漢軍を迎え入れるために、準備を整えていたところであった。
そして今日、予定どおりに韓信が、漢軍を率いて現れた。船上にある軍の様子は、何一つ戦う意思を見せていない。友好の軍が、通る姿勢であった。
守将が迷っているうちに、もう漢軍はほとんど河を、渡り終えてしまっていた。
配下が、いかにするべきかを問うて来た。
だが彼は、自分でどうすべきかなどと判断できる、将ではなかった。
迷った上に、彼は言った。
「よ、、、予定の通りだ。」
漢軍と交戦すべしという明確な命令が上から届いていない限り、彼は元からあった命令を優先した。
「予定通りに、韓信を迎え入れよ。そうだ、予定の通りだ。」
守将は、そのように配下に命じた。
彼には、昨晩の結果のことなど、いまだ何も伝わっていなかった。
真っ先に上陸した船から、大将の韓信の姿が、歩み降りて来た。
副将の曹参と灌嬰が、後ろに控えていた。
周囲の兵卒は干戈(かんか)を構えることもなく、しごく友好的な仕草であった。
韓信は、現れた斉の守将に、拝礼して挨拶した。
「遅参して、大変申し訳ない。相国韓信、漢軍の総帥として、まかり越しました。」
「て、、、天下に聞こえた名人を、この目で拝見できるとは、、、何たる、光栄、、、?」
守将は、おっかなびっくり、拝礼して返した。
「まずは、当地にて、歓迎の酒宴でも、、、」
守将は誘ったが、韓信は応じなかった。
「いえ、すでに、会盟の期日は迫っております。遅参した分を、急行して取り戻さなければなりません。どうか、我らが急ぐことを、許されよ。」
守将は、認めるより他はなかった。
彼は、漢軍のために宿営地を与え、韓信が求めるままに道中の糧食まで、貸し与えた。
一夜が、過ぎた。
次の日の朝、漢軍はすっかり前に進む用意が、整っていた。
「ここから先は、一瀉(いっしゃ)千里だ。これが最後の、休養と思うがよい。」
韓信は、配下たちを引きしめた。
朝になったついでに、斉軍の守将は、漢軍によって捕らえられていた。
「― 急ぐゆえに、後方の安全だけは、確保させていただきます。」
韓信は、身柄を拘束された守将を前にして、莞爾(にこり)とした。
軍権を預かる将さえ捕らえてしまえば、しばらくの間、軍は烏合の衆となる。
韓信にとっては、そのしばらくの間だけで、よかった。
韓信は、配下に向けて言った。
「これより先、歴に向けて進む。急ぐことが、我が軍の力となるだろう。ゆえに、急げ!」
歴には、斉の本軍がいた。
その数は、漢軍よりはるかに多い。
だが、韓信はすでに勝利のための図式を、脳中に描いていた。
彼は、曹参と灌嬰に、命じた。
「各々、軍を率いて別々に進め。私は自ら、正面から本軍を率いる。諸君の用兵は、最も信頼できる。ゆえに、兵を与えるのだ。私の構想を実現できるための将は、最も信頼できる者でなければならない―」
彼は、両将に対して、全幅の信任を与えた。
曹参も灌嬰も、黙ってうなずいた。
もう、韓信を裏切っても、見捨てても、漢のためにならない。兵は、動き出したのだ。
(彼の用兵を、信じる他はない、、、)
灌嬰は、心中で思った。
(勢いに、乗ぜられてしまったか、、、)
曹参は、口の中でつぶやいた。
「― 進軍!」
韓信は、朝の光に照らされて、総軍に号令した。
ひとたび勝機を掴んで兵を動かしたならば、彼の用兵を阻むことができる者などは、斉軍にいるはずもないだろう。
韓信率いる漢軍は、斉の本領に向けて、一路東に進んでいった。
同じ、ころ。
韓信の決断を聞いた蒯通は、隠れ家で頭を抱えていた。
「何という、愚か者が。愚か者が、、、!」
蒯通は、韓信の説得に成功したと、思い込んでいた。
彼が思ったとおりに、確かに韓信は斉に向けて動いた。
しかし、韓信は漢王に叛くことなく、進んだ先に楚軍と戦おうとしている。
蒯通は、嘆いた。
「楚を撃てば、漢を太らせるばかりではないか。それでは、戦国が終わってしまう。戦国が終われば、韓信の立つ所もまた失せてしまうことに、どうしてあ奴は思いを馳せないのか、、、!」
韓信のあまりの愚かさに、蒯通は頭を掻きむしって怒った。
しかし、彼は韓信を見捨てることなど、できはしない。
「― 彼に、斉を取らせなければならない。」
蒯通は、韓信に賭けたのだ。
韓信が動いた以上は、彼の立つ場所を用意しなければ、ならない。
蒯通は、斉にいる仲間の網を使って、田氏一族を覆す工作を動き出させた。
蒯通は、独語した。
「こうなれば、国士無双を大王にするまでだ。漢王をも越えてしまう、大王に。あ奴が拒んでも、私は必ずその運命を作り出してやるわ!」
蒯通は、隠れ家を出た。
その、向かうところは―

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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