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十八 天命尽きて(1)

(カテゴリ:国士無双の章

侵攻が始まったにも関わらず、斉都の臨淄(りんし)は、不思議なまでに静かであった。

大国、斉の都だけあって、規模はすこぶる大きい。
かつて、この都の稷門(しょくもん)の附近には、斉王の庇護を受けた学士たちが、全国から集まって来た。彼ら稷下先生と呼ばれた学士たちを、斉王は、

― 高門大屋、之を尊して寵す。(『史記』孟子荀卿列伝)

という厚遇ぶりで、斉都は戦国随一の学問の都と、認められていた。
数多の学士を集めることができたのは、斉王の富強のおかげであった。学問は栄え、揃える兵数は多く、国庫には粟米も、弓馬も、甲(よろい)も戈(ほこ)も、大いに満ち足りていた。これで英邁な君主さえ出ていれば、秦に代わって戦国の世を平定していたのは、きっと斉であっただろう。
斉が戦国の勝者となれなかったことには、何かの理由があった。
時代は下って、楚漢が争う現在は、田氏一族が斉を支配していた。かつての王家から分かれたこの一族は、宗家を引きずり降ろして、自ら大国の君主の座を掴み取った。
その田氏一族の最大実力者は、いま田横であった。
斉王であった田栄は、項王と戦って敗れ、敗走の中途で住民に殺された。
田横は田栄の弟で、田栄の遺児の田廣を後継ぎの君主として担ぎ上げ、自らは相国に就いて、国の政治のことごとくを総攬していた。
その田横が、広壮な宮城の中を、息急(せ)いた様子で歩いていた。
ここのところ連日、宮城は、和平を祝って派手な酒宴が続けられていた。
田横は、喜色を満面に表して、漢使を交えて毎日酒を楽しんでいた。漢と斉との間には、もはや何の敵対する理由もないと、安堵しているかのように見えた。
だが、それも今日になってはたと止み、宮城の中はしんと静まり返っていた。
田横が大股で駆け抜ける靴音だけが、壮麗な柱と床の敷石に跳ね返って、ことさら高く響き渡った。
田横の足は、宮城の一角に、向って行った。
外国からの来賓のための、宿坊がある地区であった。
彼が宿坊の奥に歩き去った後、しばらくして奥から割れ鐘を叩いたような怒声が、爆発した。
「漢使!、、、出て来い!」
相国がこのような声を出せるとは、側近ですらこれまで知らなかった。
「漢使!出て来い、、、出て、出て、来ぉい!」
田横の声は怒りに震え、彼の舌はもつれてしまった。
宿坊から、漢使の酈生が、現れた。
彼は、昨日まで斉王や田横と共に、連日の酒宴に参加していた。
斉王と田横は、宴席で酈生のことを賞賛してやまなかった。
酈生は、斉と漢が和平を結んだ結果を、喜んでいた。二つの強国が戦わずして矛を収めたことは、儒者として何よりも喜ばしいことであった。
酈生は、相国がやって来たことを知って、急ぎ居住まいを正し、御前に参上した。
彼は、相国に対して、最大限の丁重さをもって、拝礼した。
礼を重んずる相国に対しての、使者として当然の礼儀であった。
しかし、昨日まではあったはずの相国からの返礼が、今日は返って来なかった。
酈生は、返礼を待って、顔を上げずにそのまま控え続けた。
「― 立て。」
相国が、言葉を掛けた。
酈生は、言われてようやく、立ち上がった。
彼は、顔を上げた。
彼は、今日の相国の表情に、驚きかつ怪しんだ。
今日の田横は、酈生がこれまで見知ってきた君子の表情では、なかった。
全くの、別人となっていた。
その表情は傲然とひきつり、酈生を見る目は、怒りと、軽蔑と、殺意に満ち満ちていた。
酈生は、驚いて言った。
「相国、、、何という目で、ご覧になられますか?どうかご正気に、戻られませい。」
田横は、言った。
「これが、正気でいられるか、、、和平の偽装は、もう終わりだ!」
酈生は、彼の言葉が、にわかに理解できなかった。
「和平の、偽装?― はて、何が偽装なのでしょうか?」
田横は、言った。
「たわけが。漢との和平などは、偽りにすぎぬわ!この田横は、お前ごときの言葉に乗せられて、斉を売る愚者ではない。ついに漢を喰らう機会を得られたと、思ったのに、、、韓信めが、我が領土に攻め込んだ。我が軍は、敗れ去ってしまった、、、もう、おしまいだ!」
田横のもとに、急報が飛び込んだ。
韓信の率いる漢軍が、突然に歴(れき)で待機する斉軍を、襲った。
斉軍は驚愕して、正面から攻め寄せて来た韓信の軍を、迎撃して包囲しようとした。
斉軍の兵数は、漢軍よりずっと多い。包囲するのが、最も適切な策であった。というよりも、国士無双の来襲に対して、斉軍の指揮者たちは、数にものを言わせる以外に方策を考え付くことが、できなかった。
ようやく、包囲戦のために総軍が出撃した。
だが、出撃した矢先に、いきなり背後から突き崩された。
曹参、灌嬰の率いる別働隊が、長躯して斉軍の後ろに回り込んでいた。鮮やかなまでの、奇襲であった。不意の上に不意を突かれて、斉軍は浮き足立った。後は、今まさに見せ付けられた国士無双への恐怖が、斉軍を溶けて流し尽くすまでであった。
歴の斉軍は、面白いような手際のよさで、崩壊した。
事前に斉の地形を調べ尽くし、奇襲の機会を狙って逃さず、そして韓信と配下の用兵は流れるがように適確であった。天、地、人の全ての要素を、韓信は自在に活用した。
今日、田横がこの報告を受け取ったとき、なんとすでに韓信の軍は斉都に迫っていた。
田横は、知らなかった。
斉の官吏たちは、至るところで斉都への連絡網を、麻痺させていた。
斉の組織は、韓信の侵攻以来、速やかに崩れていった。
今日になるまで、宮城の田氏一族には、何も情報が届かなかった。今日届いた時には、状況はすでに絶望であった。上奏された報告は、敗北の言辞ばかりであった。もちろん官吏たちが、わざと悲観的な報告ばかりを上げたせいでもあった。
田横は、いきなり窮地に立たされて、狼狽した。
もはや、韓信を止める策など、彼に有りようもなかった。
田横は、一族と共に斉都を逃げるより、他はない。
彼の狼狽の心情は、自らの運命を感じた時、憤りに変わった。
田横は、酈生を罵った。
「盗賊王の、走狗めが!、、、もう、漢とは手切れだ!」
酈生は、彼のあまりに醜い怒り顔を見て、彼の正体を知った。
「― あなたの表情は、盗賊のようだ。」
田横は、酈生の言葉に、さらに激昂した。
「盗賊に、盗賊呼ばわりされてなるか!」
酈生は、悲しい目をした。
「今のあなたが、その正体でありましたか。ならば、あなたが一国を抱えてうそぶくのは、盗賊よりひどい民の害ではありませんか、、、」

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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