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十五 国士、生きるべきか(1)

(カテゴリ:国士無双の章

陣営の外は、強い風が吹いていた。
冷たい外気が吹き込むと共に、韓信は燻煙の臭いを感じた。

韓信は、びくりとして跳ね起きようとした。
だが、体が動かない。
巧妙な巻き方でくるまれてあって、体が締め付けられて起きることができなかった。
「わ!」
彼は、罠にはまったことに、気が付いた。
入って来た者の提げる刀が、鈍く光った。
血のしたたりが、見えた。
「こ、、、殺される!」
斬られて、このまま火を点けられて、灰となるか。
韓信は、後悔しようとした。
だが、恐怖に心が囚われて、後悔するも何もあったものではなかった。
(鄧陵子、、、!)
一縷の望みを、自分の叫び声に賭けた。
彼は、思い切り叫んで、助けを呼ぼうとした。
助けが来るかなど分からないが、体が動かない以上は、それしかするべきことがない。
彼が腹に息を吸い込んで、声を破裂させようとした、その時。
「― 酒で、頭がぼけましたか。」
刀を持った影が、声を掛けた。
「相国。あなたは、殺されていたところですよ。」
入って来た影は、灌嬰であった。
韓信は、いまだに収まらない恐怖の心をもって、副将の声を聞いた。
燻煙の臭いは、すでにもみ潰された火の跡であった。
灌嬰の刀は、いささかの人数を斬って、血を吸った後であった。
彼は、相国に言った。
「あなたは、もう少しで焚殺されるところであった、、、私が、あなたを見張っていてよかった。」
素性の分からぬ者どもを勝手に出入りさせていた相国は、隙だらけであった。
相国を歓待するように見せかけて陣幕に閉じ込め、火を放つこともできるまでであった。
灌嬰は夜中も相国の監視を続けていたが、突然何者かが、相国の宿営に異変があると知らせて来た。
灌嬰が配下と共に急行したときには、すでに得体の知れない者どもが、相国の宿営に火を点け終わっていた。風上に開いた口に火を点けて、中の者を一瞬のうちに煙で炙(あぶ)り殺す。この乾燥と強風があれば、ほとんど時も要らず中の者は殺されていたであろう。練達の、技であった。
彼らが火を消し止めるのがあと一歩遅かったならば、国士無双は何とも締まりのない人生の最後を、迎えていたはずだ。酔った上での失火により、死す。そうとでも青史に書かれて、物笑いの種となっていたことであろう。
灌嬰は、言った。
「奴らは、本物の間諜でした。捕らえようとしたら、その場で自害しました。残念ながら、何人かは逃げてしまったもようです、、、正体を掴むことが、できませんでした。面目も、ない。」
灌嬰は、かしこまって謝した。
韓信は、灌嬰の配下に手伝われて、ようやく褥(しとね)から解放された。
彼は、寝衣のまま座して、目を閉じた。
「謝するべきなのは、君ではなくて、私の方だ。彼らの正体などは、分かっている、、、斉が、放ったのだ。」
彼らの目的は、韓信の命を取ることであった。
彼の動向は、斉軍によって常に注視されていた。
今、韓信が正体も確かめずに外部の者を招き寄せていたことを、相手は見逃すはずもなかった。
韓信は、言った。
「奴らは、私がこのまま会盟に赴かないかもしれないと、思った。それならば、もっと簡単に私を殺せる機会が訪れたと判断したとしても、不思議ではない。それで、出入りする者どもに紛れて、刺客を放ったのだ。」
外から吹き込む強風に煽られることを怖れて、灌嬰の配下たちが燭台の火を吹き消していった。
陣幕の中は、暗闇となった。
韓信は、暗闇の中で独り座して、言った。
「私には、逃げる場所などない。」
彼には、逃避など許されなかった。
もう、誰も彼をそのままに放っておくことを、許さなかった。
灌嬰は、韓信に聞いた。
「どう、なさるのか。大王から、すでに詔は降りています。」
韓信は、答えた。
「戻らん。」
灌嬰は、聞いた。
「ならば、斉に進まれるのか。大王の詔を、無視して。」
韓信の返す言葉は、聞こえなかった。
「―――」
灌嬰は、彼に言った。
「もし、漢に叛けば― 斬りますよ。」
灌嬰は、もう隠さなかった。
彼は、言った。
「私は、国士無双の軍略を惜しみます。だが、大王は、沛以来我らが奉じてきた主君です。国士無双が大王に叛くことを、我らは許しません。」
韓信は、言った。
「許さぬ、か― 君は、忠臣だ。」
彼は、座したままであった。
灌嬰は、思っていた。
漢王は、正直なところ、素晴らしい君主とはいえない。
灌嬰は、うんと若い頃から漢王の子分となっていた。それで、彼のことはたいてい知っていた。漢王は、欲深くて計算高い、田舎の策略家であった。その策略で、沛の田舎者たちを牛耳った。そして、沛を支配していた頃と何も変わることなく、天下の君主に成り上がった。彼には、天下を握った秘密など、何もない。田舎者を組み敷くやり方を、そのまま天下に及ぼしたまでであった。そして、巨大となってしまった。広大な天下といえども、実に大したことはなかった。人をなめてかかり、人に利を食らわせ、人の弱点をすかさず突く漢王の手法は、そのままで天下の名士とか豪傑などに役に立ってしまった。
灌嬰は、漢王が大きくなるに従って、大きくなった。彼などは、何の才もない。漢王の昇龍の勢いに当てられて、無我夢中で彼の後を追い、走っただけであった。
そのような、実に大したことのない沛の者どもが、いま天下の大半を支配している。
その理由は、ひとえに飛び抜けた才のある人物たちが、漢の側に付いたからであった。
たとえば、張良子房。たとえば、軍師陳平。それに、淮南王黥布もいる。いずれも、沛以来の者どもなど足元にも及ばない、大人物であった。
そして、漢に加勢する最大の才こそが、国士無双韓信。間違いは、ない。
韓信が漢に叛けば、漢王の創業伝説は、終わる。
だから、灌嬰も曹参も、彼の離反を許すわけにはいかなかった。
(我らは、身に過ぎた宝貝(バオベイ)を、得てしまった。彼が、憐れだ。だが、逃してはならない、、、)
灌嬰は、真に才ある目の前の男を追い詰めていることに、苦しみを感じた。
そのとき、彼は後ろから入ってくるものの気配を、感じた。
風ではなく、人であった。

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章