陣営の外は、強い風が吹いていた。
冷たい外気が吹き込むと共に、韓信は燻煙の臭いを感じた。
韓信は、びくりとして跳ね起きようとした。
だが、体が動かない。
巧妙な巻き方でくるまれてあって、体が締め付けられて起きることができなかった。
「わ!」
彼は、罠にはまったことに、気が付いた。
入って来た者の提げる刀が、鈍く光った。
血のしたたりが、見えた。
「こ、、、殺される!」
斬られて、このまま火を点けられて、灰となるか。
韓信は、後悔しようとした。
だが、恐怖に心が囚われて、後悔するも何もあったものではなかった。
(鄧陵子、、、!)
一縷の望みを、自分の叫び声に賭けた。
彼は、思い切り叫んで、助けを呼ぼうとした。
助けが来るかなど分からないが、体が動かない以上は、それしかするべきことがない。
彼が腹に息を吸い込んで、声を破裂させようとした、その時。
「― 酒で、頭がぼけましたか。」
刀を持った影が、声を掛けた。
「相国。あなたは、殺されていたところですよ。」
入って来た影は、灌嬰であった。
韓信は、いまだに収まらない恐怖の心をもって、副将の声を聞いた。
燻煙の臭いは、すでにもみ潰された火の跡であった。
灌嬰の刀は、いささかの人数を斬って、血を吸った後であった。
彼は、相国に言った。
「あなたは、もう少しで焚殺されるところであった、、、私が、あなたを見張っていてよかった。」
素性の分からぬ者どもを勝手に出入りさせていた相国は、隙だらけであった。
相国を歓待するように見せかけて陣幕に閉じ込め、火を放つこともできるまでであった。
灌嬰は夜中も相国の監視を続けていたが、突然何者かが、相国の宿営に異変があると知らせて来た。
灌嬰が配下と共に急行したときには、すでに得体の知れない者どもが、相国の宿営に火を点け終わっていた。風上に開いた口に火を点けて、中の者を一瞬のうちに煙で炙(あぶ)り殺す。この乾燥と強風があれば、ほとんど時も要らず中の者は殺されていたであろう。練達の、技であった。
彼らが火を消し止めるのがあと一歩遅かったならば、国士無双は何とも締まりのない人生の最後を、迎えていたはずだ。酔った上での失火により、死す。そうとでも青史に書かれて、物笑いの種となっていたことであろう。
灌嬰は、言った。
「奴らは、本物の間諜でした。捕らえようとしたら、その場で自害しました。残念ながら、何人かは逃げてしまったもようです、、、正体を掴むことが、できませんでした。面目も、ない。」
灌嬰は、かしこまって謝した。
韓信は、灌嬰の配下に手伝われて、ようやく褥(しとね)から解放された。
彼は、寝衣のまま座して、目を閉じた。
「謝するべきなのは、君ではなくて、私の方だ。彼らの正体などは、分かっている、、、斉が、放ったのだ。」
彼らの目的は、韓信の命を取ることであった。
彼の動向は、斉軍によって常に注視されていた。
今、韓信が正体も確かめずに外部の者を招き寄せていたことを、相手は見逃すはずもなかった。
韓信は、言った。
「奴らは、私がこのまま会盟に赴かないかもしれないと、思った。それならば、もっと簡単に私を殺せる機会が訪れたと判断したとしても、不思議ではない。それで、出入りする者どもに紛れて、刺客を放ったのだ。」
外から吹き込む強風に煽られることを怖れて、灌嬰の配下たちが燭台の火を吹き消していった。
陣幕の中は、暗闇となった。
韓信は、暗闇の中で独り座して、言った。
「私には、逃げる場所などない。」
彼には、逃避など許されなかった。
もう、誰も彼をそのままに放っておくことを、許さなかった。
灌嬰は、韓信に聞いた。
「どう、なさるのか。大王から、すでに詔は降りています。」
韓信は、答えた。
「戻らん。」
灌嬰は、聞いた。
「ならば、斉に進まれるのか。大王の詔を、無視して。」
韓信の返す言葉は、聞こえなかった。
「―――」
灌嬰は、彼に言った。
「もし、漢に叛けば― 斬りますよ。」
灌嬰は、もう隠さなかった。
彼は、言った。
「私は、国士無双の軍略を惜しみます。だが、大王は、沛以来我らが奉じてきた主君です。国士無双が大王に叛くことを、我らは許しません。」
韓信は、言った。
「許さぬ、か― 君は、忠臣だ。」
彼は、座したままであった。
灌嬰は、思っていた。
漢王は、正直なところ、素晴らしい君主とはいえない。
灌嬰は、うんと若い頃から漢王の子分となっていた。それで、彼のことはたいてい知っていた。漢王は、欲深くて計算高い、田舎の策略家であった。その策略で、沛の田舎者たちを牛耳った。そして、沛を支配していた頃と何も変わることなく、天下の君主に成り上がった。彼には、天下を握った秘密など、何もない。田舎者を組み敷くやり方を、そのまま天下に及ぼしたまでであった。そして、巨大となってしまった。広大な天下といえども、実に大したことはなかった。人をなめてかかり、人に利を食らわせ、人の弱点をすかさず突く漢王の手法は、そのままで天下の名士とか豪傑などに役に立ってしまった。
灌嬰は、漢王が大きくなるに従って、大きくなった。彼などは、何の才もない。漢王の昇龍の勢いに当てられて、無我夢中で彼の後を追い、走っただけであった。
そのような、実に大したことのない沛の者どもが、いま天下の大半を支配している。
その理由は、ひとえに飛び抜けた才のある人物たちが、漢の側に付いたからであった。
たとえば、張良子房。たとえば、軍師陳平。それに、淮南王黥布もいる。いずれも、沛以来の者どもなど足元にも及ばない、大人物であった。
そして、漢に加勢する最大の才こそが、国士無双韓信。間違いは、ない。
韓信が漢に叛けば、漢王の創業伝説は、終わる。
だから、灌嬰も曹参も、彼の離反を許すわけにはいかなかった。
(我らは、身に過ぎた宝貝(バオベイ)を、得てしまった。彼が、憐れだ。だが、逃してはならない、、、)
灌嬰は、真に才ある目の前の男を追い詰めていることに、苦しみを感じた。
そのとき、彼は後ろから入ってくるものの気配を、感じた。
風ではなく、人であった。
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