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十四 巡られる命(2)

(カテゴリ:国士無双の章

知らなかったのは、自分のこと。
韓信は、周りの者どもに、講釈などをした。

「彼を知らず、己を知らざれば、戦う毎(ごと)に必ず殆(あやう)し― この意味が、わかるか?」
男たちも、女たちも、首をかしげるばかりであった。
韓信は、口を歪めて笑いながら、彼らに向けて語った。
「孫子兵法の、一節よ。これが分からない奴は、必ず負ける。実際、名将とか、智者とかを自称する者どもが、ころころと負けていった。そいつらは全て、相手を侮り、自分のことを過信していた。自分のことを知らなければ、たとえ勝ったとしても、それは一瞬の運というものよ。運などというものは、いずれ逃げ去って行く。そして、足元をすくわれて転ぶ日が、必ずやって来るのさ、、、必ず!」
韓信の杯には、もう新しい酒が、並々と注ぎ足されていた。
酔漢の講釈など、まともに聴く必要などない。
そうだそうだと囃(はや)し立てて、酒を注ぎ足せばそれでよい。
遊び女たちは、呼吸が分かっていた。
乗せられておだてられて、韓信はまた杯を口に近づけた。
「― 黒燕、、、鄧陵子、、、この私は、愚か者だ。」
韓信は、自分がこれほどに弱い人間であるとは、思わなかった。
周囲が敵と悪意に囲まれたとき、生き残るためには剣を振るって、自分のために自分が生きるための場所を、奪い取らなければならない。戦士ならば、それが当然の生き方というものであった。
なのに、韓信はその空恐ろしさに、心が乱れている。
彼が動けば、おそらく重大な結果を、歴史に刻むであろう。
「夏候嬰が、言った通りだった、、、」
夏候嬰は、彼に言った。
― 君は、強すぎる。そして、弱すぎる。
強すぎるから、彼はただの匹夫として逃げることは、もう許されなかった。彼は、自分の弱さに不相応なほどに、功績を重ねてしまった。脇目もふらずに兵法家として進んで来た彼は、振り返ると恐ろしい高みに登っていた。高すぎて、落ちてしまえば、砕け散る。かといって、その先にはさらに恐ろしいものが、待っているだろう。
「知らなかったのは、己の弱さだ。これで、国士無双か。笑わせる。大笑いだ、、、!」
韓信は、いま己のために動き出すべき機会が、逃げ去って行くことを感じた。
兵法家として許されざる、時間の浪費であった。
だが、彼の体は、動かなかった。
「もっと飲んでよ、国士無双さま!」
遊び女たちが、笑いながら韓信をせっついた。
彼は、またしても杯を傾けようとした。動かすのは、手と口ばかりであった。
乱れた宴席は、いつまでも続くかのようであった。
「― 相国!」
そのとき、陣幕の内に、武骨な男の声が響いた。
「ん?」
韓信は、酔った目を向けた。
見ると、甲(よろい)に身を固めた男が、立っていた。
入って来たのは、副将の御史大夫灌嬰であった。
「、、、了承もなく目通りしたことを、許されよ。」
彼は、宴席に割り込むと、周囲の痴態に目もくれず、上官に一礼した。
韓信は、へらへらと笑って、灌嬰に声を掛けた。
「御史大夫。お前も、飲め。上官の、命だ。軍律違反は、許さんぞ!」
灌嬰は、答えた。
「飲めません。」
韓信は、言った。
「お前は、沛で漢王と遊んでいた一人だろうが。いつも、周勃とか夏候嬰とかと一緒に、酒店で飲んでいたくせに、、、飲め!」
灌嬰は、答えた。
「あなたと飲んでも、少しも楽しくない。相国は、ともに酒を楽しめる人物では、ありません。」
韓信は、灌嬰の正直な批評に面食らって、口に近づけた杯を下げた。
灌嬰は、韓信に言った。
「大将がこのような宴席で派手に騒げば、兵卒の士気に関わります。漢軍の副将として、見過ごせません。止められよ。」
韓信は、言った。
「ここに留まっているのは、計略のうちだ。副将の君は、黙っていてもらおう。」
彼は、そう言って灌嬰をにらみ付けた。
韓信は、漢将の灌嬰に対して、悪意の目をもって見据えた。
しかし灌嬰は、韓信に対して言った。
「計略、ですか―」
彼は、両の手を合わせて、再度韓信に拝礼した。
「国士無双韓信の、計略ですか。ならばこの非才な私は、従うより他にありません。あなたの才は、私などとは比較にならない。きっと、天下平定のために大きな計略を、立てておられるのでしょう。この私が、差し出がましい口を出したのが、愚かでありました―」
灌嬰は、真剣な一本気を見せて、韓信に深々と頭を下げた。
韓信は、彼の真剣さに、浮かれ騒ぐ気分も醒め果ててしまった。
入れ代わりに、猛烈な睡気が襲って来た。
灌嬰が退席した後の陣営には、やがて闇が落ちていった。
もう、夜となっていた。
韓信は、外の冷気を鼻に感じた。
気が付くと、彼のための褥(しとね)が、用意されていた。
彼の体は、温かくくるまれていた。
ほのかに、燭台の火が灯されていた。
全て、彼の取り巻きたちが揃えた、彼のための夜の準備であった。
やがて、昼間の遊び女たちが、夜の装束に着替えて、ここに静々と訪れることであろう。
韓信は、酔いが醒めた憂鬱な気分の中で、体を横たえていた。
「こんなことをして、生きて、、、」
彼は、一人言をした。
「何の、意味がある?」
韓信は、ついに動くことができなかった。
彼が項王となるには、野蛮なまでの勇気が、足りなかった。
彼が漢王となるには、飽くことなき欲望が、足りなかった。
「死ぬことも、できないか、、、」
彼は、もう眠くもないのに、寝込もうとした。
陣営の幕が、めくられて開く音がした。
遊び女が、入って来たのだろうか。
韓信は、横目で音の立った方向を、見た。
火に灯された影が、見えた。
影は、刀を握っていた。
韓信は、ぎょっとして顔を上げた。

          

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第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
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第十章 垓下の章



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