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十四 巡られる命(1)

(カテゴリ:国士無双の章

それから日を措かず、歴(れき)に駐屯する斉軍の田間将軍から、平原津の漢軍に対して返答が送られた。

― 斉は、相国とその配下の漢軍を、謹んで斉にお迎えいたします。よろしく、河を渡られよ。
斉への道は、開かれた。
蒯通の囁いた、奇襲のための絶好の機会が、韓信に訪れた。
国士無双よ、進むべし―
しかし。
韓信は、河を渡らなかった。
斉が提案した会盟の期日は、近づくばかりであった。
なのに、漢軍を統べる韓信は、渡河の命を発することがなかった。
平原津の大将の宿営では、何やら歓声が上がっていた。
ここ数日、怪しげな商人どもが出入りする姿が、見かけられるようになった。
韓信は、趙の相国で、漢軍の大将の地位にある。
これほどの高位であれば、当たり前のことであるが、利権を求めようと企む者どもが、群がり集まってひきも切らない。大将が宮中にいようが陣中に出ようがいっこうに構わず、彼らは取り入る機会を、目の色を変えて狙っている。
韓信は、それらを全て斥けていた。というよりむしろ、彼の目に入らなかった。それで、これまで大将の宿営は、いつも静かなものであった。
しかし、彼は、ふと気づいてしまった。
自分の宿営の周りから聞こえる、蝿どもの羽音を。
それから、宿営はにわかに騒々しくなった。
軍中の配下たちは、目を合わせて怪しんだ。
すでに、漢王からの詔は、届いていた。韓信は、軍を離れて直ちに戻らなければならない。
しかし、彼はそれを無視してしまった。
斉からは、早く河を渡るように督促が舞い込んだ。
しかし、彼はこれも無視してしまった。
将としての役割を、まるで擲(なげう)ってしまったかのように、韓信は浮かれて騒いだ。
彼ほどの高位であれば、耳目の快楽は、向こうから整えてくれる。ただ受け取るだけで、よかった。
これまでとは打って変わって権力の与えるものに溺れ始めた大将を、全ての者が不審に思った。
右丞相曹参の宿営に、御史大夫灌嬰が訪れた。
灌嬰は、曹参に聞いた。
「右丞相。最近の相国のことは、何かの策略でしょうか?、、、相国のお考えは、私には量りかねる。」
曹参は、灌嬰の問いかけに、机の前で腕を組んだままであった。
彼は、灌嬰に言った。
「御史大夫。覚悟を、しておけ。」
灌嬰は、聞いた。
「覚悟、とは?」
曹参は、前に座す灌嬰の目をじっと見詰めた。
曹参は、言った。
「御史大夫― 相国から、目を離すな。彼の動きには、見えざる裏がある。」
曹参の目が、ぎらりと光った。
灌嬰は、畏れて拝礼し、承った。
曹参は、それから付け加えた。
「そしてもし、相国の謀反の動きを見て取ったときは― 斬れ。」
灌嬰は、びくりとした。
曹参は、彼に言った。
「相国の側に仕える鄧陵子という男が、彼に言った言葉は聞き捨てならぬ。私は鄧陵子の姿を探しているが、あれ以来軍中に見かけなくなった。それからだ。相国が、にわかに崩れ始めたのは。蒯通といい、鄧陵子といい、相国の周囲にはただならぬ人物が多い。漢の功臣である彼を、我らが理由なく斬ることはできない。だが、漢王に歯向かうならば、彼を断じて許してはならない。」
曹参は、机の前から立ち上がった。
彼は、灌嬰を見下ろして、言った。
「― 大王からの、我らへの下命を忘れるなよ。お前ができぬのならば、この私が手を下すまでだ。」
そう言い残して、曹参は席を離れた。
残された灌嬰は、石を腹に飲み込んだような、心理となった。
策略、なのか。
謀反の、心積もりか。
それとも、、、?
大将の韓信は、宿営の陣を宴席に変えて、運ばれて来た酒杯に口を付けた。
朝から、ぶっとおしの酒宴であった。
彼は、陽の高いうちから痛飲することの喜びを、生まれて初めて知った。
冬の寒い最中であるにも関わらず、陣幕の内側は熱気にあふれていた。
呼び寄せられた俳優、幇間(ほうかん)、それに遊びの女たち。
「― 意外な、ものだ!」
韓信は、今日の朝から十何杯目かの酒杯を飲み干してから、取り巻きに言った。
「― 相国は、酒が意外にお強い!飲めないなどと、よくもおっしゃったものだ!」
横の幇間が、はやし立てた。
韓信は、酔眼の目で言った。
「それも、意外。俺は、自分のことをちっとも知らなかった。もっと、意外なことは、、、」
彼は、横で酌をする遊び女を、ぐいと抱き寄せた。
女は、きゃははははと笑いさざめいた。
韓信は、言った。
「遊ぶことは、快楽だった。俺は、これまでちっとも楽しそうに、見えなかった。だが、あにはからんや― 入り込んでみて、ようやく快楽であると、分かったよ。ああ、知らなかった、知らなかった!」
韓信は、わざと、ぎゃはははと下卑た笑いを発した。
彼は、相国。国士無双として、今や五歳の童子まで、その有名を知っている。
どうして、悩む必要があろうか?
「ここに留まっていれば、誰もが勝手に動いてくれる。誰もがもはや、俺の周りを回るより他はないのだ。進んで、殺されてなどたまるか!俺を殺せるものならば、殺してみろ!」
初めは、一酔いしてから、決断するつもりであった。
だが、酔うと共に、心が千々に乱れていった。
彼は、自分が恐ろしい運命に置かれていることを、忘れたいと思った。
忘れたいと飲むうちに、酔いが覚めることを怖れた。
「酔ったまま、消えてしまいたい、、、」
韓信は、酔うも眠りに落ちることができない目を虚ろに上げて、つぶやいた。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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