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十三 誰のために(2)

(カテゴリ:国士無双の章

蒯通は、囁(ささや)いた。

「― 今、敵があなたを葬るために、罠を張ろうとしている。だが、罠が張られる直前には、大きな隙ができる。そうでしょう?あなたは、兵法家だ。私よりもずっと、敵の隙を突くことに、巧みなはずだ。」
田間将軍の誘いに応じたふりをして、漢軍は無傷で平原津を渡る。
斉軍は、下心を隠して、漢軍を歓迎しようとする。
そのとき、韓信は突如兵を動かし、東に進んで歴(れき)の斉軍を奇襲する。
敵の不意を突くことができさえすれば、寡兵で大兵を破ることは韓信の得意技だ。たとえ斉軍が二十万いようが、いやそれ以上いたとしても、必ず破ることができる。
そのとき、楚軍はすでに東の琅邪(ろうや)方面から西進して、斉を狭撃している。
田横は、どうすることもできずに、一族もろともに斉都を捨てて、逃げ出すより他はない、、、
確かに、勝てるだろう。
だが、韓信は勝てるという考えを、頭に描きたくなかった。
苦渋の表情をして、動かずにいた。
その彼に、蒯通はさらに囁いた。
「― もしかして、他人の国を横取りすることに、やましさを感じておられるか?あなたのことだ。きっと、そうでしょう。あなたは、きれい事が好きだ。汚い策略で、自分を汚したくない。ご自分だけ汚れたくないと、思っておられる。」
蒯通は、韓信を動かすために、話術の限りを尽した。
韓信がここで動かなければ、蒯通の縦横家としての生命は、空しく尽きる。
彼は、韓信に賭けたのだ。
この軍略の天才を動かせるかどうかが、彼の縦横家としての、全てを賭けた勝負であった。退くわけには、いかなかった。
答えない韓信に、蒯通は言葉を続けた。
「― だが田氏一族などは、亡ぼしても一向に構わないのです。田横などは、民の富を掠める、盗賊に過ぎないです。あなたが田横を叩き、田氏一族を斉から追い出すことは、斉の民を救う義挙なのです。私は、それをあなたに、語って聞かせましょう、、、」
蒯通は、斉のことについて、論じ始めた。
「― 田横をはじめとする、田氏一族。彼らは、賢明な豪傑として、たいへんに評判が高い。それは、どうしてか?、、、彼らは、自分に媚びへつらう食客を、あまた抱えています。田横らは、へつらう者どもを養い、彼らに高い官職を与えてやります。それが、忠義の種なのです。忠義を買って、奴らに自分たちの評判を、撒き散らさせる。」
蒯通は、諸国の宮廷に多くの仲間を持ち、各国の内情をよく知っていた。斉は、彼の出身である河北で最大の国であり、彼は最も知り抜いていた。
蒯通は、続けた。
「― 田横は、学問で有名な大先生とか、弁の立つ論者とか、頼もしい義侠の親分とかを、うんと召抱えています。評判の高い彼らが誉め上げるのですから、自然と無知な天下の民は、だまされます。そうやって、賢明な豪傑一族が生み出されたのです。だが、一族が繁栄するためには、元手がいる。その元手は、どこから出てくるのでしょうか?、、、」
蒯通は、声を荒げ始めた。
「― これ全て、斉の民から搾り取ったものなのです!田氏一族は、ことごとくそうだ。二百五十年前に奴らの祖先の田常が、もとの斉国の主家を転ばして、斉国を乗っ取った。田常は自分だけに忠誠を誓う子飼いの狗どもを飼い慣らし、宮廷に残る忠臣を殺し尽くして、とうとう大国を我がものとしたのです。以来、田氏は己の一族だけを繁栄させるために、一方で人民を苦しめ、一方で取り巻きに虚像を撒き散らさせて、恥じることなく国を食い物にした。その子孫の田横もまた祖先に倣い、奴は己の繁栄のために、虚像を作る。その虚像の下で、無数の斉の民が、搾り取られている。だが田横にとっては、力を持たない民の怨嗟など、聞く耳を持たない。田氏一族は、糞蝿の王です。糞蝿にとっては、あやつらは美味しい腐肉を与える。だがそのために、斉の民がどれだけ搾り取られて、あやつらを取り巻く糞蝿どもが、各地で撒き散らす横暴に、苦しんでいることか!」
彼の声は、とうとう憤りとなった。
「― 田氏一族が追い出されることを、斉の民は待ち望んでいるのです。あやつらに殉じる者などは、ことごとく斉の民の敵なのです。何一つ、同情は無用!」
ここまで語って、彼はようやく熱くなり過ぎたことを、反省した。
だが、彼が田横らの世にはびこる賢者とか豪傑たちの偽善に対する憤りは、彼の心底からのものであった。今の世の賢者や豪傑は、倒さなければならない。真に智恵ある者たちが、力を握るために。
蒯通は、声の調子を戻して、韓信に言った。
「― 国士無双、韓信よ。あなたは、正義です。あなただけが、正しい王になれるのです。いま酈生とかいう弁者が、漢と斉を舌先三寸で結び付けたと、両国で大いに喜ばれています。だが酈生などは、真実について何も知らない。そして、漢と斉が結び付くことによって、悪は生き残って、あなたは殺されるのです。酈生ごときに名を成さしめて、あなたが消え去ってはならないのです。正義のために、進むのです。進んで、この世を糾すのです。あなたにはもう進むより他に、生きる術はないのです、、、!」
蒯通の声が、ここで途切れた。
静かとなった洞穴の中に、韓信一人が残されて立っていた。
蒯通から自分のことについて聞かされた彼の表情は、砂を噛んだようであった。
やがて韓信は、ぽつりと言葉を漏らした。
「、、、進むしか、ないと言うのか。お前は。」
蒯通の声が、答えた。
「― 進みなさい。もう、答えは決まっています。」
声は、説得が勝利したことを確信して、落ち着き払っていた。
再び、沈黙となった。
水の音だけが、かすかに響き続けた。
韓信は、目を閉じて唇を噛んだ。
蒯通の説く正義などよりも、自分が追い詰められてしまったことが、彼の心に重く響いた。
兵法に目覚め、兵法家を目指して、郷里の淮陰を飛び出した。
彼は、戦乱の中を駆け巡り、挫折を繰り返しながら、ついに国士無双と呼ばれるようになった。
その挙句に、このような進退をしなければならなくなった。
かつて、彼が下邳(かひ)で学んだ黄生が、消え去る前に彼に言い残した言葉を、思い出した。
― 勝て。しかし、勝った後こそが、恐ろしい。
「勝った後こそが、恐ろしい、、、」
韓信は、師の言葉を、思い出した。
長い沈黙と静止が、洞穴の中で続いた。
韓信は、ふらりと向きを変えた。
洞穴の奥に背を向けて、外に出ようとした。
彼は、つぶやいた。
「考える暇すら、ないのか、、、?」
背を向けた韓信に、奥から再び声が響いた。
「― 趙黒燕は、まんまと漢王の寵愛を受けることと、相成りました。いずれその寵は、戚氏すらも超えてしまうでしょう。」
韓信の眉が、ぴくりと動いた。
蒯通の声は、彼の背中に、続けて投げ掛けた。
「― 全て、あなたのためです。あなたが王位に昇ったあかつきには、黒燕は枕席で漢王を一刺しに、殺すでしょう、、、始皇帝を葬ったときの、ように!」
韓信は、つぶやいた。
「黒燕。彼女が、、、」
蒯通の声が、言った。
「― 我らは、勝った。勝ったのです。勝ったのです!」
洞穴を立ち去る彼の背中で、笑い声がは、は、は、は、は、といっぱいに響き渡っていた。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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