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十三 誰のために(1)

(カテゴリ:国士無双の章

蒯通の言葉は、続いた。

「― 今、斉都から田間の兵二十万に対して、命が下りました。何だと、思いますか?」
彼の問いに、韓信は答えた。
「和平が成った以上、我が軍と共に楚を討てと、言ったのだ。」
蒯通は、薄ら笑った。
「― 違いますよ!、、、あなたを、殺せと命じているのです!」
また、自分のことを、計算から外した。
それでは、智将とはいえませんよ。
この戦国の現実は、あなたの命を奪いたがっているのです。
蒯通の薄ら笑いは、韓信にそう諭しているかのように、余韻を残して響いた。
蒯通は、言った。
「― あなたさえいなくなれば、斉は漢と対等の関係に立てる。斉都の田横は、そう心算しています。田横にとって恐ろしいのは、漢ではない。あなた一人なのです。田横があなたを殺すことを企むのは、当然ではありませんか。やがてあなたは、河を渡って会盟の場に誘われる。田間は粛然として漢軍を迎え入れ、何食わぬ顔であなたとの会盟の席に、臨むことでしょう。厳かにしつらえた壇上に両将は昇り、犠牲を屠り、血を啜って両国の同盟を宣言しようとします。そのとき、突如としてあなたに、刺客が放たれます。狂気に走った兇徒が、壇上に駆け昇ります。どうやって、警護の壁をくぐり抜けたのであろうか?― そのようなことを考える暇すら与えずに、あなたを一撃のもとに奪命するのです。一瞬の凶行に、壇下の両軍の者たちは、何もすることができません、、、」
蒯通は、予想される光景に居合わせているかのように、韓信に具体的に語った。
韓信は、奥歯を噛み締めた。
「田横が、しそうなことだ、、、」
だが蒯通は、声を重ねた。
「― 漢王が、しそうなことなのです。」
韓信は、肝が冷えた。
蒯通の笑い声がまたも、ふ、ふ、ふ、ふ、と響いた。
「― あなたは、本当に甘い、、、」
彼の声は、もはや憐れみの色を加えていた。
「― 密かに手を下すのは、田横です。田横は仁義の士として、国士無双の不慮の死を、精一杯嘆いて見せるでしょう。そして知りながら見逃すのは、漢王です。漢王は、表向きは嘆いて憤りながらも、内心でほっと胸をなで下ろすでしょう、、、」
韓信は、叫んだ。
「そんな、愚かな!」
蒯通は、叫び返した。
「― 愚かなのは、あなただ!」
愚かなのは、あなただ!
愚かな!
愚か!
愚か、、、
岩屋の壁は、音が響くたびに、不思議と鈍い光を発するかのように錯覚された。
湧き出る水の流れが、外からの弱い光を受けて、細かくきらめいているからであった。
韓信は、目が慣れて来るに従って、ここが生活の場であったろうことを、感じた。
明らかに、人が利用していた痕跡がある。
だがいつ誰が、暮らしていたのかは分からない。
彼は、問答に苦しんで、脇の壁に目をそらした。
そのとき、壁の奥まった所に、散らばっている残骸が見えた。
韓信は、驚いてすくみ上がった。
人の骨の、残骸であった。
腿の骨と、頭骨が暗がりに鈍く映えて、転がっていた。
ここで暮らしていた者の、なれの果てであろうか。
それとも、何かの儀式で葬られた、犠牲の跡であろうか。
韓信は、ぶるりと震えた。
戦場で死生を当たり前のように見て来た彼なのに、今は震えてしまった。
蒯通の言葉が、響いた。
「― 漢王にとって、田横が消えることよりも、あなたが消えることの方がずっと狂喜乱舞すべき、慶事なのです。あなたは、どうして分からないのか、、、!」
やがて、余韻を残した後、響きが絶えた。
しばし、声が止んだ。
韓信の息づかいだけが、生きている者のかすかな物音となった。
洞穴の中にいては、どれだけ時間が経ったのか、分からなかった。
だが、沈黙の間合いは、彼にとって長く長く感じられた。
蒯通は、彼が自分の言葉を待っていることを、見計らったかのように再び語り始めた。
「― 私は、縦横家です。あなたは、知らない。私の仲間は、あなたが思っているよりも、ずっと多いのです。彼らは、各国の宮廷の官吏に、大勢潜り込んでいます。いま、私があなたに語ったこと。それは、全て斉都にいる私の仲間からの、情報なのです。これからあなたがいざ斉都に入れば、私の仲間があなたのために働くことができます。あなたが斉国を得る用意は、すっかり整っているのです。田横ら田氏一族は、自分たちが斉国を支配していると思い込んでいます。だが、とんでもない。あなたが進んだとき、斉の官民はことごとく田氏一族を見限ります。知らないのは、田氏一族だけです。すでに、いま楚軍は斉を南から、攻め上げようと動いています。楚軍は、あなたの斉攻略を助けるために、北上するのです。あなたが平原津を越えて東進したとき、楚軍は斉に討ち入ります。もはや、田横に逃げ場はありません。あなたは斉を平定し、田氏一族を追い出して、斉王に昇る。そして斉王のあなたが楚と合従すれば、漢の優勢はたちまちに覆ります。もう漢王とても、あなたに手出しはできません。田横に漢王、それに軍師陳平、、、あなたを葬ろうとする賢しき悪人どもは、地団駄を踏んで悔しがるのです!」
蒯通は、自らの策を韓信に語って聞かせた。
彼は、韓信と離れて以来、地下に潜って計略を作り上げていた。彼はいま、その計略を目当ての男に、披露して見せた。後は、この目当ての男が、決断して動くだけなのだ。
韓信は、蒯通の語る言葉を聞いていた。
蒯通が語り終わった後、彼に聞いた。
「楚を動かしたのも― お前であるか。」
蒯通は、答えた。
「― そうです。楚軍は、今のあなたにとって、友軍です。」
韓信は、言った。
「なんで、楚と結ぶために、平原津の漢軍が進むものか。お前の策は、間違っている。」
蒯通は、言った。
「― 曹参と灌嬰を、直ちに斬りなさい。かつて項王は、宋義を斬って卿子冠軍を我がものにしました。漢の手先を斬り、国士無双のあなたが号令すれば、総軍は必ず怖れて、従います。あなたも、項王の事例に学ぶのです!」
韓信は、言った。
「何ということを、言うのか、、、!」
かつて項王に宋義を除くように進言したのは、韓信であった。
いまの彼は、同じことを進言される立場となってしまった。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章