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十二 囁く男(2)

(カテゴリ:国士無双の章

姿は見えないが、声には聞き覚えがあった。
声は、韓信に言った。

「国士無双、、、あなた程の人物が、どうして漢王に遠慮するのか。漢王は、あなたの実力を恐れているのだ。功過ぎた臣は、臣たり続けるべからず。」
韓信は、怖れて周囲を見回した。
しかし、すでに洞穴の奥深くであった。
韓信は、鄧陵子を追って行くうちに、人知らぬ岩屋の内に、誘い込まれていた。
外は冬の始めの寒さであったが、岩と水で囲まれた内は、年中変わらない温度であった。はるか太古の時代には、中国に住み着いた原始の人間たちが、ここを住み処としていたかもしれない。
奥から、またも同じ声が響いた。
「今、斉は和議を受け入れて、奇襲すべき絶好の機会、、、国士無双が自ら立つ土地が、拓かれたのだ!」
韓信は、奥に向けて叫んだ。
「― 蒯通!」
声の主は、蒯通に間違いなかった。
彼は、漢王が姦策によって趙国を盗み取って以来、韓信の前から姿をくらましていた。
それが今、蒯通は、声だけで韓信の前に再び現れた。
蒯通は、言った。
「― 私は、おおっぴらに軍中に出ると、斬られます。軍師陳平は、曹参・灌嬰の両将に、私を見つけ次第殺せと、命じておりますので。」
陳平が蒯通の動きを決して見逃さなかったように、蒯通も陳平の考えを読み切っていた。それゆえ、蒯通は韓信の前から姿をくらました。韓信の通るべき道を、用意するために。
韓信は、彼の見えない姿に向けて、聞き質した。
「蒯通!、、、お前は、何のために再び現れた。いったい私に何をさせようと、言うのか?」
蒯通の声が、韓信に答え始めた。
「― 天下に、三つの太陽あり、、、」
彼は、いま韓信の前に姿を出すことができない。
彼が再び姿を現すときは、彼の身が韓信の威光によって守られたときであった。韓信が漢将であり、曹参らの漢の手先によって取り囲まれている限り、彼は決して韓信の前に姿を現すことはできなかった。
蒯通は、言葉を続けた。
「― そのうち二つは、すでに沖天に昇る。一つは陽中の烏(からす)、項羽なり。西楚覇王として、暴虐を尽す。もう一つは赤帝の子、劉邦なり。漢王として、諸国をだまし盗む。だが天は、第三の太陽を、この地上に産み落としてしまった。ひとたび産まれた太陽は、昇らずにおられない。国士無双、韓信。彼は、いまこそ太陽として、斉王の位に昇る。天下は、三つの太陽が三人の王位を得て、ついに三分されるべし。何という、天のいたずらであろうか。だが、天命なるかな、天命なるかな、、、!」
天命なるかな、天命なるかな、、、
彼の言葉が、洞穴に響き渡って長らく消えなかった。
韓信は、叫んだ。
「途方もないことを、申すな!」
蒯通は、言った。
「― あなたは、本当に己のことを知らない。国士無双なのに!」
あなたは、己の軍については誰よりも知っている。
だが、己自身のことについて、あなたは知ろうとしない。
ゆえに、この蒯通は、あなたの側にいるのだ。
蒯通は、自ら課した使命として、彼のことについての真実を述べた。
「― すでに漢王は、曹参と灌嬰の両名に対して、下命あり次第あなたを斬れと、密命を下しています、、、」
彼の言葉を聞いた韓信は、立ち尽くしたまま拳を震わせた。
「― 嘘だと、思われるか?」
蒯通は、問うた。
韓信は、答えなかった。
蒯通は、そんな彼に言った。
「― もし嘘だと思われるならば、あなたは本当の痴愚か、それとも嘘つきだ。漢王は、かくのごとき男なのです。我ら二人は、すでに漢王の敵として、斬られる存在なのですよ。」
韓信は、返す言葉を失ったまま、立ち続けた。
蒯通は、ふ、ふ、ふと笑い声を立てた。
「― 我らは、斬られてなるものか。漢王は、この世の人間全てを、自分の奴隷にすることを望んでいる。だが、残念だったな。あやつの奴隷にならぬ人間の数は、多く必要ない。たった一握りの出色の者が、いればよい。それが奴隷の枷(かせ)から逃れるだけで、あやつの野望は潰えてしまうのだ、、、」
蒯通の一段と低い声が、岩壁に響いて跳ねて、くぐもった。
彼の囁(ささや)きは、自分に言い聞かせている調子であった。
韓信は、ようやく口を開いて、彼の一人語りを遮った。
「、、、お前と私を、一緒にするのはやめてくれ。」
蒯通は、彼に聞いた。
「― ならば、このまま漢王からの召還の詔を、甘んじて受け取りますか?」
韓信は、答えた。
「それは、できない。」
蒯通は、聞いた。
「― なぜですか。」
韓信は、答えた。
「軍を預かる者として、今引き返すわけには、いかない。」
蒯通は、一笑した。
「― もう、主命に背いている!、、、ああ、斬首だ。惜しや、名将韓信は、詔に背いた罪により、斬首の刑が決まった!」
笑い声が、は、は、は、は、と、何度も何度も反響して、韓信の耳を四方から取り巻いた。
韓信は、気色ばんだ。
「これぐらいの違反で、斬首になどなるものか!」
蒯通は、笑いを引っ込めた。
「― でしょうな。漢王は、そこまで愚かではない。あなたを殺すために、彼はもっともっと狡猾だ。」
蒯通は、韓信を説き伏せて篭絡しようと、弁論の罠を張り巡らせていった。
韓信は、思った。
(鄧陵子― どうして、あなたはこの男のところに、私を誘ったのか、、、!)
鄧陵子が、蒯通と語らって、韓信をこの洞穴に誘った。
それはもう、明らかであった。
彼は鄧陵子と蒯通の結託に困惑しながら、翻弄される己の進退に、頭を揺さぶられっぱなしであった。

          

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第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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