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十二 囁く男(1)

(カテゴリ:国士無双の章

韓信の、宿営の中。

相変わらず、起居する場所は質素で、出入りする人は多くなかった。
小楽は再び楚に赴き、彼の側に常侍するのは、鄧陵子ぐらいであった。
韓信は、鄧陵子に言った。
「楚軍の動きが、ただ事でない、、、斉は、戦場となろう。」
漢との和議が成った以上、楚が攻めて来ることは自明の理であった。
韓信は、言った。
「だが、田横が真剣に楚と戦うのかは、あやしい。田横は、本音では漢に屈したくなど、決してない。やむをえず、降伏しただけだ。」
鄧陵子は、韓信に言った。
「あなたが赴けば、勝てるでしょう。」
韓信は、答えた。
「だが、漢王は私を進ませない。」
何という、ことだろうか。
韓信という稀代の軍略家が斉にいるのに、彼は出撃を許されない。
鋭利な武器は、蔵(かく)されたままであった。もはや誰にも、使われることがない。
鄧陵子は、言った。
「相国― この私は、あくまでもあなたのことを、信じています。」
韓信は、言った。
「鄧陵子。あなたが信じてくれるだけでも、あり難い。今の私の周囲は、不信ばかりだ。」
鄧陵子は、彼に言った。
「ですから、この際申し上げます。」
韓信は、問うた。
「なんだろう。」
鄧陵子は、言った。
「あなたは、もう使われるべきでは、ありません。あなたを使うことは、もはや誰にもできない。そしてあなたが使われないことは、天下の大損失なのです。よろしくご自分で判断して、進まれよ。漢王の制止など、振り切って進むのです、、、!」
彼は近寄り、韓信の手を取った。
韓信は、にわかに小声になった。
(やめろ、、、誰かに、聞こえる。)
彼が預かっている遠征軍には、隅々まで漢の監視が行き届いていた。
下手な動きは、漢王の側に筒抜けとなる。
しかし鄧陵子は、怯まなかった。
「私ごとき、斬られても一向に構いません。しかしあなたは、無為に過ごされてはならない。あなたは、この時代の希望なのです。漢王も、項王も、時代に希望などもたらしはしない。項王がもたらすものは、破壊です。そして漢王がもたらすものは、、、絶望です。きっと!」
韓信は、苦しい顔をした。
「鄧陵子、、、あなたは、太平を望まないのか!あなたは、かつて天下の統一を望むがゆえに、あえて始皇帝に組したのではないのか。分裂は、果てしない戦乱をもたらすだけだ。漢王が絶望だなどと、あなたはどうして言えるのか!」
鄧陵子は、声を高くした。
「― あなたが、統一するのです!」
韓信の体が、細かく震えた。
「ここを、立ち去れ!」
韓信は、鄧陵子から手をふりほどいて、突き放した。
鄧陵子は、ひらりと数歩退いた。
間諜もこなすことができる、身軽な体の動きであった。
彼は、韓信を向いて端座した。
それから、頭を下げて、言った。
「― これだけの諌言を申し上げた以上は、生きてこの軍中に留まることは、できません。臣は、これより河水のほとりに赴いて、自害して果てることといたします。」
彼は、そう言って、体を跳ね上げた。
「ごめん!」
鄧陵子は、脱兎のごとく宿営から去って行った。
「あ、、、待て!」
韓信は、立ち上がった。
彼が宿営の外に出ると、すでに鄧陵子は門衛をかわし、軍の外へ逃げ出そうとしていた。
韓信は、慌てて後を追った。
軍の陣営から外に出れば、向こうに河水(黄河)の巨大な流れがあった。
伝説の聖王、禹(う)が暴れる水を治めるために、この河の流れを作ったという。
禹は、鄧陵子の属する墨家たちが、信奉する聖王であった。
しかし、かつて鄧陵子は韓信に、笑って言った。
「いくら聖王の禹といえども、一人の力でこのような大河を治めることなど、できはしません。」
彼は、どこまでもうねうねと続く堤防を指しながら、韓信に言った。
「これらは、史書には載っていない無数の人間たちの力が、積み上がった結果なのです。人の上に立つ者とは、億万の人の働きがあって国が成り立っていることを、決しておろそかにしてはなりません。それを、おろそかにする君主が、今の世にはあまりに多い。私は、それが残念でなりません、、、」
韓信は、走りながら思った。
(鄧陵子、、、私は何もできぬ人間だが、お前を自害などさせない!)
韓信は、鄧陵子の後を追って、駆けた。
駆けるうちに、どこに進んでいるのかも、分からなくなった。前に見える、鄧陵子の背中だけを追って、韓信は走り通した。不思議なことに、彼を見失わず、しかし少しも彼との距離を縮めることが、できなかった。
彼が我に返ったとき、いつの間にか窩(あなぐら)の中に迷い込んでいた。
河岸に空いた、洞穴であった。
「鄧陵子、、、どこだ!」
韓信の発した声は、洞穴に無数のこだまを成して、響き渡った。
洞穴の奥は、真っ暗で何も見えない。
韓信は、途方に暮れて周囲を見回した。
すると―
「国士無双よ、、、」
見えない奥から、人の声が聞こえて来た。
「国士無双の韓信よ、、、来たか。我が言を、聞け!」
声は洞穴の中で何重にも響き渡って、韓信に押し寄せて来た。

          

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第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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