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十一 平原津(2)

(カテゴリ:国士無双の章

韓信は、平原津で動かなかった。

その彼に対して、河の向こうから使者がやって来た。
斉の将軍、田間からであった。
「斉王は、漢王と和議を結ぶことと相成りました。よって、これ以上の敵対は無用です。両国が共に楚を攻めるために、田間は韓相国との会盟を望んでいます―」
斉都で、ついに和議が成立したのであった。
斉王田廣は、叔父の田横に促されて、漢の使者酈生の説得を容れることに決めた。
酈生は、使者の役目を見事に果たしたと、斉都で称揚された。
斉は大同に就き、漢と合従して、暴虐の項王を討つ義軍に馳せ参じる。大義を重んじる斉国は、一国の独立を捨ててまでも、漢王に靡いて天下の安寧を楽しむことを望むだろう― 美辞麗句が、車に載せるほどいっぱいに、撒き散らされた。
韓信は、使者の言葉を聞いて、深くため息を付いた。
「そうか、、、終わったか。」
陣営で使者を迎える彼の脇には、曹参と灌嬰が並んで座っていた。
灌嬰は、使者と言葉を交わす韓信を見ていた。
彼の韓信を見る顔付きは、いかにも残念そうであった。
曹参は、隣の灌嬰の表情を見て、眉をひそめていた。
それから、大きな咳払いをして、使者に注意を促した。
「残念、ながら―」
曹参は、言った。
「相国は、斉に赴くことはできない。いずれ、漢王より召還の詔が来るであろう。相国は、お戻りになられるのだ。」
曹参は、灌嬰のように韓信に対して私情を寄せることは、禁物だと思った。今は漢王の意向を、優先させなければならない。漢王は、韓信が斉人と接触することを、忌み嫌っている。もし韓信が斉に取り込まれでもしたら、漢王にとって最大の脅威となってしまう。
しかし、韓信は曹参に言った。
「右丞相― 今、私が戻ることはできない。」
曹参は、韓信に理由を問うために、目を向けた。
目を合わせた韓信は、小さく首を振るだけであった。
まことに、軍事的な理由だった。
韓信がいなくなったと聞けば、斉軍は勇躍してこの平原津の漢軍を、討つであろう。
斉人の和平など、その程度の信義しかありえない。
討たれれば、この軍は全滅する。
それは、軍を預かる韓信にとって、出来る選択ではなかった。
(こればかりは、君命といえども、受けられない―)
韓信は、自分という存在の重みが斉を動かしたことを、軍事的に判断した。斉軍の戦意が完全に消え去るまで、この身を軍から引き離すわけには、いかない。
曹参は、大将の固い決意に、言葉を詰まらせた。
韓信は、斉からの使者に聞いた。
「田間将軍は、歴(れき)にて会盟を、望まれるか。」
使者は、答えた。
「相国がご同意なされば、謹んでお迎え致します。」
韓信は、言った。
「私単身で、行くことはできない。我が軍を連れて行くが、如何に。」
使者は、困惑した。
韓信は、言った。
「共に、楚を討つのである。軍が貴国の領内に入ったとて、何の不都合があろうか。」
当たり前の、ことであった。
大将が丸腰で外国に会盟に行くなどという外交は、戦国の世にありえない。
かつて、春秋時代に宋の襄公は覇者を気取り、中原諸国のわずらいである超大国の楚を手なずけようと、楚王に会盟を呼びかけた。
楚王は、喜んで会盟の場に馳せ参じた。大軍を、引き連れて。
会盟の場で、小国の君主にすぎない襄公は、楚軍によって手もなく生け捕りにされた。
それが、戦国の外交の真実であった。共に語るには、力が要る。
使者は、即答できず、言葉を濁して斉に立ち返った。
「― いずれ、斉は私が河を渡ることを、許すであろう。」
使者が去った後で、韓信は諸将に言った。
曹参は、言った。
「斉と戦う必要など、もはやありません。」
韓信は、彼に言った。
「右丞相。あなたは、漢の勝利を望まないのか。天下の平定を、嫌うのか。」
普段は冷静な曹参であったが、韓信の言葉にさすがに顔色を変えた。
「そのようなことは、ありません、、、決して!」
韓信は、彼に言った。
「私は、大将として勝つために最善のことを、行なっているつもりだ。兵を動かさざる時には無闇に妄動せず、兵を進めなければならない時には、留まったりしない。私が兵を動かすのは、それが勝利に必要であると、思うからだ。私の判断は、ときに誤るかもしれない。ただ幸いに、これまで私の用兵は、大筋で正しかった。私の軍人としての仕事は、きっと悪くないのだ。私は、勝つために最善を尽している―」
語る韓信の目は、涼しかった。
曹参は、それ以上言葉を返さなかった。
彼の隣には、灌嬰がいた。
曹参と灌嬰の二人は、韓信のいない所で、互いに語り合っていた。
「― 相国に、叛意はありません。彼を、疑うべきでない、、、」
灌嬰の弁護に対して、曹参は首を縦に振らなかった。
「― お前は、甘すぎる。彼の力と名声は、すでに彼の意図を越えて、動いているのだ。御史大夫、お前は相国に情を持ちすぎている。漢臣としての立場を、わきまえろ。」
「右丞相。しかし、、、」
灌嬰は、まだ反論しようとした。
その彼に、曹参は一喝を喰らわせた。
「お前は、もう沛の絹商人でないのだぞ。漢の、御史大夫だ。大王の意思を、優先せよ!」
右丞相に、御史大夫。
沛の時代には考えもしなかったほどに、高すぎる位であった。
灌嬰は、座しながらうつむき加減に、頭を掻いた。
頭を掻く仕草さえややもすれば勘繰られる、政治の世界であった。
まだ若い彼の心にとって、重くて苦しかった。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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