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十一 平原津(1)

(カテゴリ:国士無双の章

こうして、各人の思惑は、もつれ合いながら、見えないところで動いて行った。
それらはやがて浮上し、大きな事件を生むことであろう。
その主舞台は、斉。
その主役と、いえば―


思惑を持つ全ての者が、一人の人物を主役として、睨んでいた。
だが、その主役たるべき男は、いまだに何もしていなかった。
韓信は、漢軍を率いて、斉との境にある平原津にあった。
彼の下には、漢将として右丞相曹参と、御史大夫灌嬰が付けられていた。
韓信は平原津に至って軍を留め、そのまま河を渡らなかった。
兵を屯(たむろ)させたまま、動かず日々を費やしていた。
「― 攻めないのか?」
「― 持久戦と、いうやつなのだろうか?」
軍中の下士官や、補給の役を担う官吏たちは、大将の意図を疑い、あれこれと推測した。
「― 国士無双の、大将だからな。何か、策があるに違いない。」
「― たぶん、敵の隙を付いて、一挙に攻めるつもりなのだろうよ。これは、そのための待ちだ。」
動かぬ軍中では、にわか兵法家たちが現れて、暇な日中の談義に花を咲かせていた。
だが本当のことを言えば、隙も何もあったものではない。
目の前に広がる河水(黄河)は、斉を守る巨大な壕であった。
歴(れき)には、二十万の兵が駐屯して、漢に備えていた。
敵は、こちらの出方を固唾を飲んで見守り、堅く守っている。
敵は自国の領域で戦うために、補給に不自由しない。
はるばる遠征して来た漢軍が持久策を取るいわれなど、兵法の書にはどこを探しても書かれていない。やるならば、かつて項王が侵略した時のように、火のような速戦であった。だが、敵地に踏み入って勝つためには、敵を上回る兵数で侵略するか、あるいは敵の裏をかく奇襲を行なうか、その二つしかありえない。
大将の韓信は、陣営で無為な日々を過ごすばかりであった。
(兵数は、あまりに少なく―)
彼は、心中でつぶやいた。
彼は趙の相国として、遠征軍の兵卒を徴集した。しかし、すでに趙の疲弊した内情を知っている彼にとって、大兵を募ることはできなかった。結果、敵の斉軍と対決するためには、とても足りない兵数しか揃わなかった。
(斉軍は、渡河点の向うで、待ち構えている。渡れば、袋叩きとなる。)
韓信は、自分の長剣を杖にして、ぼんやりと空を眺めた。
勝てないから、動かない。
それが、大将の本当のことであった。
彼の陣営に、灌嬰がやって来た。
灌嬰は、韓信に一礼して前に座し、彼に言った。
「見たところ、この平原津に着いて以来、相国は何も動かれていない、、、なぜですか?」
韓信は、答えた。
「勝てないから、動かない。動けば、無駄に兵卒が死ぬ。簡単な、理由だ。」
灌嬰は、言った。
「勝てないからといって、無為に過ごされる。大将として、それでよいのですか。」
韓信は、言った。
「大王から、早く動けと督促もない。」
灌嬰は、言葉に詰まった。
今、酈生が漢の正使として、斉都の臨淄(りんし)に赴いている。そのことは、遠征軍にも知らされていた。
韓信は、漢王の真意に、とっくに気付いていた。
彼の存在感は、斉国にとって恐怖の的であった。
いま斉軍が、過剰なまでに防衛を固めているところに、斉都の懸念がありありと現れていた。
灌嬰は、心に思った。
(韓信。あなたは、その役目を、、、)
引き受けるのか?
名前だけ脅しに使われて、将軍として成果もなく終わらされる。
韓信は、その役目を甘んじて受けているように、灌嬰には見えた。
(あなたは、、、それでよいのか。)
灌嬰は、彼の軍略に内心惚れ込んでいた。
それで、今の自分の立場が、苦しかった。
灌嬰と曹参は、はっきり申せば、この男の監視役であった。
彼が余計な野望を見せないように、抑え付ける役どころを、主君の漢王から含まされていた。
灌嬰は、長剣を立てて所在なさげに座る韓信の姿を、哀れに感じた。
彼は、ついに韓信に語り掛けた。
「相国。あなたは、これまで寡兵をもって、何度も大兵を破って来た。私は、それを何度も見て来ました。」
韓信は、物憂げに答えた。
「そうであったな。君の働きは、いつも素晴らしかった。」
灌嬰は、言った。
「そのあなたが、およそこの時代に勝てない相手がいるとすれば、それはあの項王しかいません。斉の田横など、あなたの敵ではありえない。この戦でも、あなたがいざ軍略を用いれば、きっとあの斉軍を打ち破ることができるでしょう。」
韓信は、答えなかった。
彼はわずかに、下を向いた。
灌嬰は、言った。
「あなたは、それでも、、、動こうとしない。それで、よいのですか?」
韓信は、さらに下を向いた。
彼は言葉を出さず、沈黙が続いた。
灌嬰もまた、これ以上のことを彼に言うことが、できなかった。
「申し訳、ございませんでした、、、」
灌嬰は、拝礼して陣から立ち退いた。
残された韓信は、また心中でつぶやいた。
(黒燕の、言葉、、、)
彼は、黒燕が去り際に残した言葉を、思い出した。
― 漢王、項王の二人に、立ち向かうのよ。あなたが、この世で非凡な人間だということを、見せるのよ。
今彼女は、漢王の枕席にいる。
彼女の言葉が、彼の頭の中に何度も回転した。
だが彼の手は、剣を握ったまま動かなかった。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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