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十 殺す勿かれ(2)

(カテゴリ:国士無双の章

梁に討ち入る前に、項王の前で軍議が開かれた。

梁では、各地の城市が彭越の脅しに屈して、楚軍に対して城門を閉じていた。
項伯が、状勢を述べた。
「陳留、外黄、睢陽(すいよう)、、、主だった城市は、全て彭越に加勢している。これを平らげるには、十五日などではとても無理だ。」
彭越の潰瘍は、日を追うごとに広がっていた。
いまや、梁はほとんど彭越の支配下に入ったと、言うべき深刻さであった。
項王は、怒りに目を鋭くした。
「なぜ、諸城はあのような盗賊に、屈するのか!」
項伯は、言った。
「己を、守るためだ。城市の父老たちが、どうして盗賊軍などを歓迎するものか。」
悲惨なのは、名も無い人民であった。
何も、彭越の軍を解放者として、迎えたわけではない。
軍が進んで来たところで、することと言えば掠奪と暴行ばかり。下っ端は目の色を変えて奪い、上は元手なしに士気を高めることができるゆえに、下の乱暴を見て見ぬふりをする。その上に大将からは、次の戦のための徴発が命令される。じつに、踏んだり蹴ったりであった。だがもし刃向かえば、さらなる復讐が倍になって襲って来るだろう。それで、おとなしく従わざるをえない。
軍というものは、人民の生き血を吸って戦い続ける、怪物であった。怪物が生きるために、補給と称して人民を食い続けなければならない。怪物は人民を食い続けて、戦う。しかもその戦う目的が、大将の出世欲を満たすためと来たものだ。あまりにもひどいので、学者が大義のための軍だとか、悪を討伐するのだなどと、理由をこしらえる。全部、嘘であった。できれば、怪物どもが相戦って、さっさと両方全滅してしまったほうがよい。人民の本音は、そこまで苦しめられていた。
項伯は、甥に言った。
「城市の父老たちは、必ずしも我らに歯向かう決意をしたわけではない。ここは、時間を掛けて、説得を試みるべきだ。梁は、楚国にとって大事な土地なのだ。」
彼は、国の内政の面までを、考えに入れていた。
ゆえに、甥への意見はまっとうなものであるはずだった。
しかし、項王は季父(おじ)の意見を聞いて、うなずかなかった。
「時間を、掛けて、、、?」
そんなことをしていれば、漢に全てを奪われてしまう。
項王は、言った。
「私には、もう時間などありません!、、、漢軍を討つ前に、必ず梁を平らげなければ、ならないのです!」
項伯は、困惑した。
「ならば、どうするというのか、籍!」
項王は、季父の問いに、答えた。
「それぞれの城市が籠っているのは、動くことを躊躇(ためら)っているからだ。一斉に動いて盗賊を追い出せば、たちまち梁は平定されるだろう。動かすためには― 力を使う!」
項伯は、うめいた。
「また、城市を屠るというのか、、、!」
項王は、言った。
「城市に降伏を促し、応じればよし。もし一日でも応じなければ、見せしめに全員を阬(あな)にする。敵は、力をもって脅しているのだ。こちらがもっと大きな力を見せなければ、動くことはない!」
彼は、梁の城市を屠ることを、叫んだ。
梁は、自分の国の版図である。
それにまで死の懲罰を与えてしまえば、もはや国は続きようもない。
(やはり、、、!)
項伯の脳裏に、苦い思いが走った。
(こいつを、見捨てなければならないのだろうか?)
項王は、彼にとって甥であった。
いくら漢から働き掛けがあったとしても、今の今まで彼を見捨てるつもりなど、起らなかった。
しかし、項伯は、ついに思った。
(だが、、、だが天下の、ために、、、)
彼がそれ以上のことを思い描こうとした、そのときであった。
「― いい加減に、しろっ!、、、項籍!」
絶叫と共に、項王に向けて拳が飛んだ。
項王は、顔面に鉄拳を食らって、斜め後ろに吹き飛んだ。
後ろに張られていた陣幕に、項王の巨体がぶち当たって張り裂けた。支える柱が、ばきばきと何本も折れた。
一瞬で半壊した陣営に、項王はもんどり打って倒れた。
彼が起き上がったとき、目の前に男が立っていた。
男は、さきほど振るった拳をいまだに震わせながら、項王に言った。
「お前は、亡びることを望んでいる。それでよいのか!、、、お前は、自分に酔って亡ぶつもりなのかっ!ならば、、、ならば、お前は史上最低の、愚者だ!」
項王を打ち据えた呂馬童の目は、怒りに燃えていた。
項王は、しかし反撃しなかった。
呂馬童の強烈な拳を受けた頬をさすりながら、彼に言った。
「― 私は、愚者なのだ。」
呂馬童は、言った。
「愚者ならば、お前は一人で死ねばよかった。だが、お前は覇王になってしまった。覇王が愚者であることは、人のわざわいだ。そうだ。お前は、わざわいだ。お前の進むところ、屍の山だ、、、」
呂馬童は、憤りのあまり、目に涙を溜めた。
項王は、言った。
「呂馬童、、、お前も、我がわざわいの一端を担っているのだ。もう、退くことはできない。」
呂馬童は、歯をくいしばって、言葉を漏らした。
「そうだ。もう、退くことはできない。俺は、お前に付いて、とうとうここまで来てしまった。もう、引き返せない、、、!」
彼は、項王を見捨てることなど、できなかった。
覇王は、全ての人に背かれようとしている。それも、当然であった。江東以来付き従って来た呂馬童の主君は、破壊の覇王であった。破壊は必要であるが、破壊するだけの者に世の人は長い時間を、与えてくれない。
項王は、立ち上がった。
呂馬童の鉄拳も、彼の肉体を打ち据えることはできなかった。
項王は、言った。
「― 我らは、亡ぶのであろうか。」
呂馬童は、言った。
「亡んでは、ならない、、、!」
項王は、莞爾(にこり)とした。
「だが、時が逆らうならば、どうしようもない。私は、生き方を変えることなど、できない。」
呂馬童は、再び拳に力を込めた。
項王は、身構えた。彼が打てば、呂馬童は項王よりさらに遠くに、吹き飛ばされるであろう。
しかし、呂馬童は、打たなかった。
彼は、その手で流れた涙を、拭いた。
それから、かしこまって項王に言った。
「とにかく、、、己の民を屠るのは、止めたまえ。あなたの、民なのです。主君に手を挙げたご無礼を、許したまえ。」
項王は、答えた。
「お前の、言うことだ。考えて、おこう。」
呂馬童は、言った。
「我ら項軍は、亡びはしない。覇王は、負けはしない。覇王項羽に、万歳あらんことを!」
彼は、項王に一礼して、それから風のように崩れ落ちた陣営から立ち退いた。
その日のうちに、呂馬童と江東の騎兵たちが、陣営から駆け去って行った。
翌日、項伯は、驚いて項王に聞いた。
「どこに行ったというのか、彼は?」
項王は、言った。
「斉に。」
項伯は、聞き直した。
「― 斉?」
彼は、ひらめくものがあった。
うろたえて横を向いた季父に対して、項王は言った。
「もう、止まりません。行かせなさい。勝つも亡ぶも、天に任せるのです。」
大きな戦いが、項伯の知らないところで始まろうとしていた。項伯は、漢軍に告げるべきかどうか、迷った。だが、このときもう矢は放たれた後であった。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
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第七章 楚漢の章


           
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