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十 殺す勿かれ(1)

(カテゴリ:国士無双の章

項王は、東の梁を討つために動いた。

成皋には、塞王司馬欣と海春候曹咎(そうきゅう)の両名を、残すことにした。
この二人は、かつて項梁と項王の二代に渡って、働いたことがあった。秦時代、項梁が関中で罪により捕えられたとき、秦の官吏であった司馬欣と曹咎の両名の働きによって、処罰を免れることができた。時代が下って項王が秦の章邯と対決していたとき、司馬欣らはこの項氏との因縁を利用して動き、章邯の楚への降伏を促した。その恩賞として、司馬欣は関中の一角に王として封じられ、塞王にまで昇った。
しかし、司馬欣はすでに、関中の地を失っていた。韓信の漢軍が、たちまちに関中を攻め降してしまった。司馬欣はいったん捕らえられて漢王に降伏を余儀なくされたが、彭城の決戦で漢が惨敗したときに、再び項王のもとに走った。以来、彼は土地を失った王であった。
項王は、二人に言った。
「私は、十五日で戻って来る―」
十五日で彭越を蹴散らして後背を固め、やがて漢王が河を渡って現れたならば、すぐさま取って返して、叩きのめす。
項王は、自信に満ちていた。
自分一人だけでも、戦場に駆け着ける。
それが勝利に必要であるし、それで十分であると、思った。
「ゆえに、守ってさえいればよい。漢軍と貴公らが決戦する必要は、ない。全て、この私を信じるのだ!」
項王は、二人に訓示した。
司馬欣と曹咎は、うなずくより他はなかった。
項王の軍は、彼を信じるか信じないかが、全てであった。
若い兵卒たちは、項王の勝利を疑いもなく信じていた。ゆえに、江東以来付き従う彼の鉄騎たちは、無敵であった。
しかし、司馬欣ら年配の将たちもまた、若者たちと信仰を一にしているとは言えない。
彼らは、項王の訓示を、黙って聞いていた。しかし、その内心はといえば、勝利への信仰からは程遠いものであった。
項王は、彼らの不安な表情など、目に入らなかった。
滎陽には、将軍の一人、鍾離昧(しょうりばつ)を残した。
滎陽はすでにさきの戦で破壊されて、守る拠点になどならない。
項王は、気にしなかった。
「残す兵など、当てにしない。漢王に勝つのは、この私だ!」
項王とその軍は、東に進んだ。
彼の隣には、これまでの通りに、呂馬童が馬首を並べて従っていた。
だが彼は、密かな決意を、胸に秘めていた。
出発の前夜、彼は項王に一人で会った。
彼は、一つの作戦を、項王に告げた。
(韓信が、漢を裏切って平原津を渡ります。彼の臣の蒯通は、韓信と呼応して斉を挟撃せよと、告げています、、、)
呂馬童は、この計に乗らなければならないと、思った。
現在、斉方面の守りとして、龍且将軍が兵を率いて置かれている。
呂馬童は、この兵を動かして、斉に進むことを考えた。
ただし、外部に漏らすことはできない。この作戦は、極秘であった。周囲の者たち、特に項王の季父(おじ)の項伯には、決して告げなかった。
呂馬童は、項王に囁いた。
(それがしが、江東の騎兵と共に、龍且将軍のもとに駆け付けます。龍且将軍と共に、兵を直ちに動かして斉に向かいます。韓信が裏切るならば、楚はこれを助けて同盟しなければ、なりません、、、!)
項王は、彼の耳打ちに、しばし応えなかった。
やがて彼は、呂馬童に聞いた。
(その言葉、本当に信じられるのか。)
呂馬童は、正直に答えた。
(― わかりません。)
項王は、ためらった。
しかし、呂馬童は、主君に言った。
(だが、あなたお一人では、もう勝つことができません。)
呂馬童は、項王の確信とは異なった言葉を、告げた。
彼の確信とは裏腹に、項王がいくら敵軍を蹴散らしても砕いても、時が経つにつれて戦況はますます不利となっていた。
彼個人の神力ではいかんともし難い、時の勢いが、彼に逆らっていた。
項王は、このときばかりは反論もせず、言葉を失った。
確かに。
韓信ならば、同盟できるかもしれない。
彼は、漢王ら世にはびこる出世者どもとは、確かに違う。
彼は、天を仰いで思った。
(韓信、か、、、)
だが項王は、そこで言葉を切った。
彼は、呂馬童に言った。
(もし、韓信が裏切らなければ、如何にする―)
呂馬童は、言った。
(そのときは、韓信を倒すのみ。)
敵は、倒さなければならない。
項王は、彼に問うた。
(、、、勝てるのか。)
呂馬童は、答えた。
(勝たなければ、なりません。)
彼は、手を合わせて項王に対し、黙礼した。
(お前が、申すならば、、、)
項王は、この江東以来死生を共にして来た、若き股肱の真剣さを、感じ取った。
(― よいだろう。)
項王は、ついに彼の進言を容れた。
以上のことが、二人の間に交わされていた。呂馬童は、そのためにこれから騎兵たちを連れて、斉に向かうつもりであった。

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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