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九 蘭閨の陰(2)

(カテゴリ:国士無双の章

戦陣においても、生きる欲を忘れない。

漢王は、項王との死生を賭けた勝負の間においても、実によく食し、快適に眠った。
君主の仮面をかぶって、真剣ぶるのは彼の性分ではない。彼は、沛の片田舎から出た、ごく無名家の子にすぎなかった。
陣営の奥にしつらえた閨房は、大王の後宮というには小さすぎた。夜の情事の声が、外の門衛にまで聞こえるほどの、無頓着な構えであった。彼が常の大王と異なるところは、自ら前線に赴いて大陸じゅうを駆け回るところにあった。このことばかりは、自らに義務としていた。豪壮な宮殿の奥深くに籠っていたままで、自分の国が天下を取れるだろうと楽観視するほど、彼は後世の君主どものように現実離れしていなかった。彼は、今でも庶人のままに、生きていた。野良で作業をするがごとくに土の上を駆け回り、森の中で娘を押し倒すがごとくに、妾たちを組み敷いた。
「前線にいては、女を選ぶこともできぬわ、、、早く戦を終わらせて、楽しみたいものよ。」
漢王は、女を前にして、意地悪く言った。
女は、くっくっと笑った。
大王の残酷な物言いを笑い飛ばせるからには、彼女への寵愛は本物であった。
寵愛を一身に集めているのは、戚氏であった。
漢王の正后呂雉は、いま劉太公と共に、項王に人質にされていた。
いまのところ項王は、彼女たちの命を盾にして、漢王を脅そうと試みていない。
漢王は、戚氏に言った。
「そんな卑怯な手段は、あの子に使えない。本当に、よい子だよ。俺と違って。」
戚氏は、言った。
「あなたなら、迷わず人質で脅すでしょう?」
漢王は、言った。
「当然だ。俺は、使えるものは使う。」
戚氏は、薄目を閉じた。
「悪い、人―」
漢王は、足を組んだままで、ひょいと跳んで、彼女ににじり寄った。
「悪いから、勝つのだ。この世で誰かが、勝ち残らなければならんのだ。俺は、勝ち残る、、、!」
戚氏は、漢王の黒子(ほくろ)の目立つ胸に、上体を投げ出した。
漢王は、言った。
「如意は、覇気があるな。ますますよい。」
彼は関中に戻ったときに、自分の息子たちと会った。
長子の肥は、沛時代に作った妾腹の子であった。取り立てて見るべきものも、ない。
次子の盈は、呂雉が産んだ。いま、正后の子として太子に立てられている。しかし、漢王のこの子への情は、薄かった。
三人目が、如意であった。戚氏の産んだ、幼子であった。
劉氏の兄弟や親族たちは、漢王から見ればいずれも皆、凡庸な人物ばかりであった。漢王だけが、劉氏一族の中で突出していた。それで、自分の国をやがて譲る後継ぎには、凡庸な子を置きたくないのが、本音であった。
漢王は、言った。
「劉氏は、俺だけだ、、、俺の後には、並の子では荷が重すぎる。」
戚氏は、漢王の胸に頬を摺り寄せて、言った。
「上は、如意を目に掛けておられます、、、そろそろ、太子をお取替えに、、、」
漢王は、やおら女の髪を、引っ張った。
「痛っ!」
女は、叫び声を挙げた。
「妾が、家の事に口を出すな!」
漢王は、髪を引っ掴んで、それから女を褥に叩き付けた。
「も、申し訳ございません!」
戚氏は、必死に謝った。
漢王は、言った。
「太子を取り替えるのは、内乱の元だ。まだ項羽との勝負とも付いていないのに、俺の国を割ることができるか!」
漢王は、不愉快となって、唇を噛んだ。
(周りは、能無しばかり。子は、小さすぎる。これで、俺は勝ったとしても、後に何も残らない、、、!)
一瞬、彼の心中に戦うことの空しさが、込み上げようとした。
だが彼は、その思いを、すぐに散らして捨てた。
(先の事など、成ってみなければ分からん。考えても、愚かしいだけだ。)
こんな気分の時には、笑うに限る。
欲を満たせば、次の日にはまた快活に戻るのが、漢王の日常であった。
漢王は、控えて涙を流す戚氏を、再び手繰り寄せた。
「もう、泣くでない。余の前で、涙は許さぬ。」
漢王は、優しい声で語り掛けた。
戚氏は、変わらぬ寵愛の情を感じ取って、そそくさと涙を拭った。
漢王は、ひひひと笑って、彼女を押し倒そうとした。
彼女は、笑いながら、しかし迫る男の胸を支える両手に、力を込めた。
漢王は、聞いた。
「何を、拒むか、、、?」
戚氏は、答えた。
「申し訳、ございません。下腹の、具合が、、、」
漢王は、言った。
「― また、出来たか?」
戚氏は、言った。
「そのようで、ございます。」
漢王は、喜んだ。
「子は、多くなくてはならん、、、この国は、広い。劉氏の王が、たくさん要る!」
漢王は、戚氏の腹を、さすった。
戚氏は、いとおしく男の背中を撫でた。
漢王は、言った。
「だが、困ったものだ、、、これでしばらく、お前が抱けぬ。」
戚氏は、言った。
「妾は、他にいくらでもいるでしょう?」
漢王は、言った。
「次善の者で、しばらくは我慢するか、、、」
漢王は、目の前の女を慈しみながら、頭では明日からの次善の者について、考えていた。
西魏王から奪った、三人の娘にするか。
それとも、、、?
その翌日の、夜。
漢王の閨房に、女が進んだ。
漢王は、女に言った。
「趙王の、養女か―」
女は、平伏したままで、言った。
「趙黒燕と、申します。」
とても若く、清らかな声が閨房の暗がりに聞こえた。
漢王は、趙王から奪った女を前に、満悦の表情であった。

          

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第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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