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九 蘭閨の陰(1)

(カテゴリ:国士無双の章

小修武の陣営は、再びの進撃に向けて、動き出そうとしていた。


漢軍は中原に出るが、項王はいずれ必ず引き返してくる。
張良と陳平は、漢軍に対して拠るべき一つの地点を、示した。
「― 広武山。」
広武山は、河水(黄河)の南にある、台地であった。
滎陽の下流から、河水の水が導かれて、東南に流れている。
鴻溝(こうこう)と、呼ばれる。自然の流れでは、ない。人力によって開かれた、運河である。
『史記』河渠書によれば、この運河は先秦時代に掘り抜かれたという。この運河によって、宋、鄭、陳、蔡、曹、衛といった春秋時代の中原諸国が、結ばれた。中国では、水を制して操る事業は、はるか古代から為政者の執念であった。
広武の台地は、この鴻溝を東に置いていた。そのため、東からの敵を防いで籠るには、恰好の拠点を提供していた。
二人の軍師は、漢王と諸将に説明した。
「滎陽、成皋を速やかに抜き、いざ項王が引き返して来たら、戦わず直ちに広武山に入るのです。項王は、脇目もふらずに広武山を攻め陥とそうと、するでしょう。」
張良は、漢王に目を向けた。
漢王は、かゆくもない頬を掻いて、言った。
「奴は、俺の首だけを狙っているから、な。」
張良は、諸将に言った。
「いったんこの山に入ったならば、決して動かず、項王と持久戦に入ります。淮南王黥布が、南から楚を締め上げます。彭越は背後から、項軍の補給を断ちます。関中からは、兵と食をますます増強して、堅く守るのです。すでに、漢は楚に対して圧倒的優勢にあります。項王の攻めをかわすことが、最終的な勝利に一歩ずつ近づくことと、なりましょう。」
もう、張良は漢の諸将に対して、項王と戦うことを薦めなかった。
戦えば、敗れるであろう。
敗れたならば、項王の武勲を高めるだけの結果にしか、ならない。
張良は、言った。
「項王は、侮るべからず。彼を畏れるがゆえに、戦わない。そして漢は、怯むべからず。漢は天下平定の使命あるがゆえに、挫けてはならない。諸将よ、我ら漢軍は、章邯ではない。章邯の秦は、天下の全てが見放していた。しかし漢は、天下の全てがその勝利を望んでいるのだ。心せよ。我ら漢軍の、使命を!」
張良の言葉は、重く深く諸将の心に響いた。
彼に代わって軍師役を務めて来た陳平は、確かに智恵がある。策略の面では、陳平は張良をしのいでいた。
しかし、諸将を奮い立たせる言葉を発し、大義のために自己犠牲を説く力においては、張良子房に敵う者はいなかった。
ますます神霊な空気を発して戻って来た張良の言葉に、漢軍は引き締まった。
漢王は、諸将に号令した。
「項王が梁に進んだ後を追って、河を渡れ―!」
それから、自分の首に掌をとんとんと突き当てて、斬る仕草をした。
「この首が、項王を引き付けるのさ。効き目のある、餌だ。」
諸将は、どっと笑った。
君主の漢王だけが、項王に対して不敵不遜であった。
軍議は、漢王の言葉をもって、終わった。
諸将が持ち場に戻った後、漢王の陣営には両軍師だけが残っていた。
漢王は、彼らに聞いた。
「― 田横は、降伏を決意したか。」
陳平は、答えた。
「怖れが、虚勢を追い越しました。予想の、通りです。」
漢王は、聞いた。
「その怖れの元は、、、どうなった。」
陳平は、答えた。
「いまだ、平原津に駐軍したままです。」
漢王は、言った。
「呼び戻せ、、、すぐに。」
陳平は拝礼して、主命をかしこまって受けようとした。
そのとき張良が、漢王の前に進んだ。
彼は、漢王に言った。
「大王。」
漢王は、応えた。
「なんだ。」
張良は、言った。
「戻って来ないときのことも、考えて置かれよ。」
漢王の表情が、冷えて固まった。
張良は、気にせず言葉を続けた。
「彼が戻って来ないとき、どうなさいますか。」
陳平は、下を向いたまま、細かく震えた。
漢王は、張良の問いに、答えた。
「そのために、奴の隣に曹参と灌嬰がいるのだ。刃向かうならば、奴らに命じて―」
漢王は、自分の首に手刀をしゅっ!と引いた。
「斬る。」
張良は、言った。
「韓信が楚に寝返るならば、仰せのとおり斬らざるをえないでしょう。だが、寝返らないとすれば?」
漢王は、聞いた。
「子房。お前が、言いたいことは、、、」
彼は、張良を見据えた。
張良もまた、漢王を見据えた。
漢王は、言葉を続けた。
「奴が自立して、漢の友軍となることを望んだら、どうするのか。それを、お前は俺に聞いている。」
張良は、言った。
「その、通りです。」
漢王は、言おうとした。
「ならば―」
(、、、斬る。)
彼は、そう言おうとした。
張良は、漢王に目をもって、話し掛けた。
(それは、なりません。)
漢王は、口の動きを止めた。
長い沈黙の間合いが、続いた。
それから、漢王はようやく口を開いた。
「― そんなものは、起ってみなければ分からぬわ。止めろ止めろ!」
そう言って、彼は立ち上がり、席を後にした。
奥に引き込む前に、軍師たちに聞こえるように、言った。
「やはり、子房の方が、一歩奥を見通しているようだな―」
そう言い残し、肩を揺すって奥の閨房に消えていった。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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