«« ”八 二つの道(1)” | メインページ | ”九 蘭閨の陰(1) ”»»


八 二つの道(2)

(カテゴリ:国士無双の章

陳平は、張良に言った。

「誰が、韓信を反逆者にするものか。そんな損なことを、漢はできません。漢は、早く統一しなければならないのです。」
彼とても、絶対に韓信が踏み止まるとまでは、決めて掛からなかった。
韓信は、進むかもしれない。
「たとえ韓信が、平原津を越えたとしても―」
陳平は、言った。
「漢は、それを咎めたりはしません。韓信はたちまち田氏一族を追い出すでしょうが、どうせ奴らはいずれ亡ぼすべき連中です。漢にとって、惜しくありません。漢は、韓信の行為を追認して、斉を返してもらうまでです。韓信の隣には、曹参と灌嬰の両将がいることを、お忘れなく。韓信の軍は、これ全て漢の将卒なのです。たとえ彼が勇み足をしたとしても、彼が漢を離れて一人斉で立つ余地は、何もないのです。韓信は、無駄骨を折って終わりです。」
蒯通は必ず、韓信を語らって、平原津を越えさせようとするであろう。
しかし、蒯通はただの弁者にすぎない。
たとえ韓信が蒯通に惑わされて進撃の指令を出したとしても、実際に兵を動かすのは、彼のすぐ下の曹参と灌嬰である。曹参・灌嬰は漢王に背くことは、ありえない。彼らを動かすには、漢のために斉を取るという理由を、抜かすことなどできない。田氏を亡ぼした後に、漢軍から斉を受け取るまでなのだ。和平が成ったにも関わらず不意討ちで取った斉などは、韓信の武功として認める必要がない。
「もっとも、いま斉にいる酈生は、怒って本性を現した田横に、きっと殺されるでしょうな。あの先生が手を挙げたのは、絶好の機会だった。彼は、自ら進んで、死にに行ってくれた。どうせ、あんな小物は、それぐらいにしか役に立たない―」
陳平は、わざと意地悪そうに、へ、へ、へと笑った。
張良は、言った。
「君は、いつも人を侮る。」
陳平は、言った。
「私の、本性です。本性だから、致し方ありません。」
張良は、言った。
「その本性は、漢王と一緒だ。悪い、本性だ。」
陳平は、言った。
「軍師、、、あなたは、漢王に愛想を尽かされましたか?」
張良は、言った。
「もとから、彼には何も期待など、していないよ。」
陳平は、言った。
「ならば、軍師は私と、意見を同じうしておりますな。最後に勝つ君主がどんな人間であろうが、我らにとってはどうでもよい。大事なことは、統一すること。始皇帝は、最初に統一したゆえに、天下の民は慣れていなかった。それで、反乱が起った。しかし始皇帝を受け継いだ項王は、統一など気にも留めなかった。ゆえに彼は、退場するべきです。漢王は、天下を取る欲に満ちています。そして、それ以外の美徳を、何も持ち合わせていません。だがそれで、よいのです。こと政治については、統一は人間の善悪に優る、至上の掟なのですから。」
陳平は、張良に反対の意見など、言って欲しくなかった。
政治と、人間は違うのである。
韓信という存在は、すでに政治であった。
政治にとっては、たとえ善なる君主が二人いたとしても、それは争いの種となる。君主は、一人でなくてはならない。
張良は、言った。
「戦などは、もうなくなった方がよい。これだけは、確かなことだ。始皇帝が統一した後には、征服された者たちの憤りが充満していた。それが、秦を倒した。だが今や倒した者は倒され、果てしない流血と破壊が、意味もなく続くばかりだ、、、もう、沢山ではないか。」
陳平は、張良をじっと見た。
「ならば―」
陳平は、張良に言った。
「あなたから、韓信に言ってくださいよ、、、これ以上、出しゃばるな、と。」
張良は、言った。
「それは、できない。」
陳平は、聞いた。
「なぜ。」
張良は、答えた。
「人の心を、抑えることはできない。」
陳平は、叫んだ。
「― 矛盾だ!」
張良は、声を抑えて、彼に言った。
「ああ。私の言葉は、矛盾している。」
陳平は、それでも自分の見通しを信じた。
「いったい韓信に、何ができるでしょうか。彼の配下は、全て漢王の股肱です。彼には、何の大義名分もありません。彼は、天下を割って争乱を続けることを、望んでいません、、、彼に、もう自立する余地はないのです。」
しかし、張良は、陳平に言った。
「韓信は、君などの思惑を越えた、英雄だ。君の掌の内には、納まり切らない。」
陳平は、苦い顔となった。
「あなたは、それでよいのですか、、、」
彼は、うめくように言った。
張良は、言った。
「私は、彼を信じている。韓信は、きっとまた真の兵法家の道を、示すことであろう。そして、彼は決して無益な戦を、しないであろう。君が楽観視しているほどに、この天下の争いは彼なしで終わることはない。陳氏。君ごときが、国士無双韓信を、侮ってはならないよ―」
そう言って、張良は席を立った。
彼は、水の流れるような起居振舞で、陳平のもとを去って行った。
残された陳平は、いまだ坐しながら、目を閉じたままであった。
彼は、つぶやきを繰り返した。
「そんなはずは、ない、、、」
夕闇が、室内に落ちるままであった。
彼は、まだつぶやいていた。
「そんなはずは、ない。もし、そうだとすれば、、、」
彼は目を開いたが、すでに真っ暗であった。
彼は、言った。
「いずれ殺さなければ、ならないではないか、、、!」
陳平とても、韓信の名声については、惜しんでいた。しかし、彼がこれ以上に飛躍するならば、もう生かしておくわけにはいかない。陳平は、政治の論理として、そのように思わざるを得なかった。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章