陳平の宿舎に、来客が告げられた。
「おお、、、生き延びられたか。張子房!」
陳平は、喜んだ。
張良子房は、病状が極めて悪く、ここ数ヶ月漢王の許しを得て関中で療養していた。
その彼が、再び前線に戻って来た。
張良は、陳平の居室に通されて、一礼した。
「― ここ数ヶ月、病床から貴殿の軍師ぶりを拝見いたしました。その手腕に、讃嘆いたしました。私など、到底及ぶところではありません。」
張良は、陳平のことを讃えた。
陳平は、嬉しそうに返礼した。
「なんの、なんの、、、私などは、代役です。そう、軍師張良子房の、代役に過ぎませんよ!」
陳平は、昔から敬愛してやまない張良に讃えられて、得意さを隠せなかった。
張良は、陳平に薦められて、席に着いた。
張良は、着座して、にこやかに陳平に面した。
陳平は、張良の具合を見て、彼に聞いた。
「そのご様子では、以前よりも回復なされましたか―?」
張良は、答えた。
「いいえ。何も、変わっておりません。」
陳平は、不審に思った。
張良は、言った。
「もう私は、いつ死んでも構いません。かといって、死を望むことも、ありません。これまで智者になろうとしてあれこれと努力して参りましたが、もはや今後は己の生きていること自体を大切にしたいと、思うようになりました。そう思うと、療養していることも、愚かに思えてしまったのです。すると不思議に、四体が再び動くようになりました。」
張良のたたずまいは、周囲にすがすがしい空気を漂わせていた。
真の神仙とは、このような人なのかもしれない。
張良は、莞爾(にこり)として、陳平に言った。
「あなたは、私に上座を薦めなかった― まだ、私に聞くべき何かがあると、思われるのですな?」
陳平は、照れて笑った。
もし張良を上座に座らせたならば、それはかえって陳平の傲慢を表していた。
軍師は、智を人に与えて、智を人と戦わせる存在であった。だから軍師は、もし相手の智を敬するならば、かえって対等の会話を望むだろう。上下の差があるところに、智と智の戦いは起るべくもない。
それならば。
彼は、陳平に言った。
「斉は、降伏するだろう。田横にもはや、選択の余地はない。」
陳平は、言った。
「やがて田横は、酈生の薦めに和する形を取って、漢と大同することを決意します。漢は、田氏が斉の君主であり続けることを許し、共に楚を亡ぼすことを、誓います、、、全ては、筋書き通りです。」
張良は、言った。
「そのとき韓信が兵を動かせば、斉は容易に陥ちる。」
陳平は、言った。
「― そうでしょう。」
張良は、言った。
「韓信の側には、蒯通がいる。蒯通は、仕掛けている。それを、君は知っている。」
陳平は、言った。
「ご明察の、とおり。蒯通は姿をくらまして、韓信に斉を取らせる絵を描いています。」
張良は、聞いた。
「彼を、反逆者にするつもりか。君は。」
陳平は、声の調子を上げて、答えた。
「とんでもない、、、!彼は、漢の大功者です。」
張良は、陳平をじっと見据えた。
彼は、もう笑ってはいなかった。
陳平は、真剣な表情で、張良に言った。
「、、、韓信は、動きません。彼は、踏み止まります。彼は、趙で反逆できませんでした。彼の中には、天下を割る結果を恐れる心があります。」
張良は、言った。
「君は、意外にも彼のことを信じている、、、漢王と共に、彼を踏み付けておきながら!」
陳平は、聞いた。
「軍師。あなただって、彼のことを信じたいでしょう?」
張良は、答えた。
「私は、彼が真の軍略家であることを、信じている。」
陳平は、言った。
「そうです。このままでいれば、彼は漢に大功ある軍略家として、名を残すことができます。だがもし彼が天下の一角を占めようと望んだならば、そのときは破滅が待っているのです。それが分からぬ韓信では、ありません。彼は、動かず踏み止まるでしょう。」
二人の間合いは、張り詰めていった。
陳平は、言った。
「― 彼は、賢明です。賢明に、過ぎるほどです。」
張良は、言った。
「― 彼は、君が考えているほど、愚かであろうか?」
陳平は、ふうと息を継いだ。
「軍師は、韓信を愛しておられる。」
張良は、言った。
「当たり前だ。」
彼は、自分と韓信とのことを、語った。
「韓信は、私と共に、下邳で学んだ。私が、彼を兵法の道に誘ったのだ。爾来、十年の年月が過ぎた。韓信は、私よりずっと兵法を知る将となった。彼を踏み出させたのは、この私だ。彼の人生に、私は責任がある。」
それは、軍師らしからぬ、私情であった。
陳平は、軍師という職業にとって、私情は疎ましいものであると、決めて掛かっていた。
だから、張良のような私情を、彼は決して戦略に持ち込まなかった。
「― 彼に関して情をもって見るのは、すでに誤りです。彼は、国士無双なのですよ、、、」
陳平は、張良の情を理解しながらも、彼の立場を認めることができなかった。
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