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七 軍師の思惑(2)

(カテゴリ:国士無双の章

漢の軍師陳平は、このとき小修武の陣営にあって、毎日が忙しかった。

彼のもとには、あちらこちらから集められた情報を記した書簡が、うず高く積み上がっていた。一日で彼の室に運ばれて来る文書だけでも、優に車一台はあるように思われた。陳平は、人に任せず、全て自分の目を信じて読み通していった。
「― 楼煩(ろうはん)とは、河南の部族であるか。」
陳平は、趙の国内から寄せられた情報を、興味深く読んでいた。
最近漢が手に入れた趙国は、北方の遊牧民に対する中国の最前線でもあった。
彼ら農耕民とは生活を異にする人間たちを、中国では北狄(ほくてき)と呼んでいた。河南と呼ばれる河水(黄河)の湾曲部に広がる高原地帯は、農耕民と遊牧民が雑居している。両方の民にとって、生活しやすい土地だからであった。
その北狄の一部族である楼煩が、漢軍によしみを通じて来た。彼らは、騎射の兵を持っている。馬に乗って弓を射る術は、農耕民の中国人も模倣を試みているものの、彼らには到底敵わない。楼煩の騎兵たちは、いずれ友軍として活用するべき時もあるだろう。
しかし、陳平が文書を読んで憂えたことは、楼煩が漢軍に飛び込んで来た、その背後の理由であった。
陳平は、遠くを慮(おもんぱか)った。
「匈奴は、いずれ南下して来るであろう― 中国での戦などに、長らく関わっている場合ではない。」
匈奴は、冒頓(バートル)単于の下で、急速に強大化している。
楼煩の伝えるところによると、単于はすでに東方の東胡(とうこ)を大破して、その王を斬ったという。さらに単于は、北方の渾庾(こんゆ)、屈射、丁零、鬲昆(かくこん)、薪犂(しんり)といった諸部族を、次々に打ち従えている。匈奴は、単于の下でかつてない統一を示そうとしていた。
陳平は、思った。
「統一が成れば、外に拡がるのは国家の必然。そしてこの中国は、いまかつてないほど、疲弊している。早く戦を終わらせて、漢のもとに統一させなければならない―」
彼は、次の文書に目を通した。
中原からの情報によれば、項王は彭越らを討伐するために、いよいよ梁に向かおうとしていた。
漢軍が、再び南下すべき機会は、整った。
「我が軍は、中原を目指す。項王は、梁で彭越を倒すことができない。そして、もう一つの、仕掛け―」
陳平は、先程受け取った文書を、もう一度手元に引き寄せた。
彼は、改めて文書に目を通した。
読み返して、彼はまたも、苦笑した。
彼は、言った。
「漢王の、見立て通りであるよ、、、田横は、大した賢者だ!」
それは、斉の相国田横から送られた、内密の書簡であった。
漢は、酈生を斉への正使として送り、漢に帰順するべき旨を、正面から説かせた。
もとより、漢は使者の後ろに、刀剣をちらつかせていた。
平原津に進む韓信の兵が、無言で田横の咽元に突き付けた刃であった。
田横は、表向きはごく丁重に、漢との外交を行っていた。礼節を知る賢者の体面が、彼にはあった。
その裏で、田横は陳平を相手にして、えげつない衝突のやり取りを交わしていた。
陳平は、文書を読んで、鼻で笑った。
「斉が楚と合従したなどは、虚言にすぎない。項王は、田横を容れることなど、絶対にできぬ。」
彼は、田横が返して来た脅迫を、一顧だにせず斥けた。
「だが、田横!」
陳平は、独語した。
「開戦は、させぬぞ。お前たち一族は、降伏してもらう。漢のために―」
陳平は、酈生が斉への使者を提案した時に、漢王の耳元でこのように囁いたのであった。
(酈生に行かせて、斉を戦わずして陥とすのです、、、)
漢王は、初め軍師の意図に、合点がいかなった。
軍師は、続けて最も大事なことを、囁いた。
(そうすれば、兵を率いる韓信が、功を挙げる機会を持てません!)
聞いた漢王の顔が、一挙に明るくなった。
韓信の名声は、斉にとって恐怖であった。
その名声だけを用いて、彼にこれ以上の功名を与えない。
軍師の進言は、漢王にとって願ってもない展開を勧めるものであった。
漢王は、韓信に斉討伐を命じたものの、本心では彼が勝つことを恐れていた。
もし勝てば、功過ぎた家臣の名声が、自分を越えてしまうかもしれない。
漢王は、陳平の進言を直ちに容れて、酈生を斉に送り込んだのであった。漢王と陳平にとって酈生は、田横と奇麗事を語り合うための、化粧の役目にすぎなかった。
陳平は、机に積み挙げられた文書の前で、独語を続けた。
「田氏一族を降伏させるためには、いくぶんかの利を食らわせる必要があろう。どうせ田横ならば、統一が成った後に取り潰すのは容易い。漢にとって真に恐るべきは、田横ではない、、、田横は、英雄ではない。あの二人の英雄こそが、漢の敵なのだ。外にいる猛虎が、一人。そして内にいる国士無双が、もう一人!」
陳平は、筆を取った。
焼いて脂を抜いたばかりの真新しい竹簡に向かって、田横に返すべき文書を書き始めた。
そこには、さらなる脅迫と、ほんのわずかの利が書かれてあった。
賢明な豪傑と噂される仁義の人、田横が動くのは、ただ利と脅迫あるのみ。
漢王の観察は全く正しいと、陳平もまた思っていた。
酈生は、何も知らないで田横に仁義を説くであろう。
田横は、仁義の人の評判どおりに、酈生の言葉に感動して、斉を漢に差し出すことであろう。
「それでよいのだ。見える世界は、麗しい。草木は萌えて、花も咲く。その土の下に埋まっているものは、果たして糞尿であろうか、それとも饐えた屍体であろうか、、、?」
陳平は、小さく乾いた音を立てながら、筆を進めた。いま彼が座っている、文書に囲まれた狭い狭い世界。それは、余人に見えることも知られることもない、隠された世界であった。

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章