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七 軍師の思惑(1)

(カテゴリ:国士無双の章

調略、合従は、余人には見えないところで、行なわれる。

書き残された歴史には、結果だけがある。部外の者たちにとって不可解に思われる国と国との関係の変化があれば、そこにはおそらく、公式の記録から抹消された外交があったはずだ。
賢者の一族として有名高い、田氏一族の治める斉国は、どのように動くか。
巷間では、そのことが自然と話題に上っていた。
田氏一族は、これまで漢にも楚にも距離を置いて、孤高を保っている。
しかし、他の諸国が全て楚漢によって整理された今では、この大国の去就が今後の戦況を決めることは、間違いない。
もし漢が取れば、漢の勝ちは決まる。
だがもし楚が取れば、劣勢の楚は息を吹き返すであろう。
天下は、この頃どこかしこでも、斉国の動向に気を揉んでいた。
まず、目立った動きは、漢の側から起った。
広野君酈生食其が、漢の正使として、斉都の臨淄(りんし)に遣わされた。
斉王の田廣、並びに彼の叔父で相国の田横が、彼を丁重に迎え入れた。
斉は、戦国一の文化国家として、漢使に最大限の礼を尽して、怠ることがなかった。
田横は、斉王と共に、酈生との会談に臨んだ。
なごやかな空気で、首脳と使者との会話は続いて行った。
ひとしきり話題が一巡した後で、田横は酈生の学問について聞いた。
「広野君は、郷里の高陽で、儒の道を学ばれたとか。」
酈生は、答えた。
「さよう。高陽は儒学不毛の土地でありますが、それがしは独り孔子の道を慕い、経書に親しんで参りました。」
田横は、言った。
「この斉は、かつて孟子が客卿として仕え、荀子もまた三たび祭酒の職に就いた、儒家にとってゆかりの深い国です。現在は相国の職にあるそれがしも、斉の権を司る者として、儒家が説く王道政治を望まずにはおられません。」
酈生は、言った。
「ならば、王よ、相国よ。かつて斉の宣王に孟子が申された言葉を、思い出したまえ。」
田横は、首をかしげた。
酈生は、微笑んで言った。
「宣王は、孟子に隣国に交わる道を聞きました―」
孟子は、当時戦国で最強と目された斉国の宣王のもとに、儒家の道を説くためにやって来た。宣王は、先代の威王の武勲を継いで覇道に熱心で、隣国に対して戦を望む君主であった。しかし孟子は、宣王に対してただ王道に従って隣国と交わるべきことを説いた。大国といえども、小国といえども、王道を進んだ君主だけが、生き残り勝ち残ることができるだろう。王族田氏の長であり、武勲に逸る宣王に対して、孟子はそう諌めたのであった。
酈生は、言った。
「孟子が宣王に答えた言葉には、こうありました。

― 小を以って大に事(つか)える者は、天を畏れる者なり。天を畏れる者は、その国を安んず。

今、天下のいずれが大でいずれが小であるか、相国はお分かりでしょう?」
田横は、口をすぼめた。
酈生は、朗々として、語った。
「覇王をうそぶく項王に対して、すでに天下は皆畔(そむ)き、賢士は皆怨みを懐いて尽きるところがありません。項王は暴虐にして城市を屠り、主君の義帝を弑し、賢才を登用しません。しかし漢王は項王の非を責めて義軍を起こし、利を士卒に分け与えて、天下の人民と利を同じくしています。ゆえに今や、天下の英雄、豪傑、賢才は、みな漢王のために役立つことを楽しみ、諸侯の兵は四方から集まっているのです。その漢王は蜀・漢中より兵を発して以来、三秦を平らげ、河を渡って西魏を降し、趙の大軍を井陘口にて撃破して趙王を斬りました。これは、蚩尤(しゆう)にも劣らぬ、武勲であります。これはまさしく人の力の為すところではなく、漢王に天が福を与えているとしか、思えません。」
蚩尤とは、はるかいにしえの黄帝の時代に猛威を振るった、軍神のことである。
酈生は、さらに斉の首脳たちに、説いて薦めた。
「今や、天下の人士が皆漢王に帰するであろうことは、坐して測ることができます。その中で、ひとり斉国だけが取り残されるのは、斉にとっての不幸と申すべきものです。もし斉家が社稷を安んぜんと望まれるならば、暴虐の項王を離れて、天の帰するべきところに寄り添いたまえ。一国でいたずらに勇を誇る者は、不智者です。天を畏れて王道に就く者が、智者なのです。王よ、相国よ。この使者の言を、疑われるな、、、!」
田横は、酈生の演説に対して、まあまあごもっともと応答するばかりであった。
ひとまず、会見は終わった。
田横は、王になり代わって立ち上がり、酈生を謁見の間より丁重に送り出した。
「斉王と相国の賢明を、期待しております。」
酈生は、礼式のとおりに拝し、宿舎に戻った。
田横は、彼が退席した後で、斉王に言った。
「即断は、無用。外交の全ては、この我に任せたまえ―」
まだ若い斉王は、うなずいた。
田横は、斉王のもとを退いた。
彼は、一人になった頃合を見計らって、独語した。
「、、、天を畏れよとは、言ってくれるではないか。」
田横は、人が見ていないことを確かめてから、表情を一変させた。
「平原津に、蚩尤を進めおって、、、!」
彼の真の憂いは、そこにあった。
もはや、使者に見せていた君子の顔ではなかった。彼は、思うとおりに事が進まないときの、憤りに満ちた真の顔に戻った。
田横は、歯ぎしりしながら、漢の狡猾な外交を呪った。
「漢め。我が国と楚が組めないと見越して、国士無双の兵で脅すか。だが、見ておれ。合従の世界に、不可能はないのだ、、、!」
田横は、国士無双韓信の用兵が、恐ろしかった。
彼と戦ったとき、勝算を描くことができなかった。
その韓信が、いま平原津に向けて、兵を進めている。それは、田横にとって絶体絶命の危機に見えた。
だが脅迫には、脅迫で返す。
それが、現実の外交であった。
田横は、今夜またにこやかな顔をして、酈生を迎えた酒宴に臨むことであろう。正使の彼は、水面下の取引など知らないし、田横が彼に知らせる必要もない。
田横は、机の前に一人座り、筆を取った。
「たとえいまだ合従が成らなくとも、すでに成ったように書く。それが、外交の戦だ、、、!」
彼は、筆を進めて行った。
漢に送る、斉国の本当の外交書簡であった。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章